日々の出来事
9月 (岩手日報より)
3月 4月 5月 6月 7月 8月 10月 11月 12月 1月 2月
9月30日
1985年(昭和60年)
日本一のデパート開店
横浜市のJR横浜駅東口に「横浜そごう」がオープンした。売り場面積は約6万8000平方メートルと、
西武百貨店池袋店を抜いて日本一に。同市の再開発地「みなとみらい(MM)21計画」の入り口に立地。
約1万8000人が行列し、テープカットは当時の水島広雄社長。
1961年
OECDが発足
経済協力開発機構(OECD)が欧州諸国に米国、カナダを加えた20カ国で発足した。
日本の加盟は64年、現在29カ国が加盟している。市場主義を原則とする先進工業国中心の
国際協力機関で、経済の安定成長と途上国支援、自由貿易拡大を目指す。本部はパリ。
1955年
ジェームズ・ディーンが死去
ジミーの愛称で親しまれた米映画スター、ジェームズ・ディーンがカリフォルニア州で交通事故のため
死去。24歳。54年にエリア・カザン監督の「エデンの東」に主演。続く「理由なき反抗」で人気を
不動のものにし、死後も50年代の青春の象徴であり続けた。
1917年(大正6年)
東日本に暴風雨
東日本を風速43メートルの暴風雨が襲い、死者・行方不明者は1300人に上ったほか、倒壊または
流失した家屋が4万4千戸近くに達するなど大きな被害をもたらした。また、この影響で東海道線が
4日間不通となり、米・食料品価格も暴騰して台所を直撃した。
9月29日
1978年
在位わずか34日
ローマ法王ヨハネ・パウロ1世がバチカンの寝室で病死しているのを発見された。
8月26日、第264代ローマ法王に選出されたばかりで、在位期間34日は今世紀最短。
後継法王は、ポーランド人のヨハネ・パウロ2世で、イタリア人以外の法王は455年ぶり。
1962年
「マイ・フェア・レディ」に幕
米ブロードウェー史上最長の公演記録を続けていたミュージカル「マイ・フェア・レディ」の公演がこの日で
終わった。バーナード・ショーの戯曲をもとにしたこの作品は56年3月以来、2717回上演され、
「オクラホマ」のロングラン記録2212回を大幅に書き換えた。
1956年(昭和31年)
イタリア歌劇団初来日
オペラの本場からイタリア歌劇団が初来日、東京・東宝劇場でヴェルディの「アイーダ」を上演した。
来日歌手は17人で、ソプラノのステルラ、メゾソプラノのシミオナートといったそうそうたる顔ぶれ。
「フィガロの結婚」「トスカ」なども大評判になった。
1918年(大正7年)
初の政党内閣が成立
米騒動のあおりで辞めた寺内正毅「官僚内閣」に代わり、政友会総裁の原敬を首班とする政党内閣が
成立した。外相、陸相、海相を除き、他の閣僚は政友会員が占めた。憲政史上、初の無爵の首相となった
原敬は平民宰相と歓迎された。
1985年(昭和60年)
「8時だヨ!」最終回
ザ・ドリフターズの「8時だヨ!全員集合」(TBS系)が最終回を迎えた。
16年も続いた生の公開バラエティー番組。大がかりな屋台くずしのセットに、コントと歌を交え
「ちょっとだけよ」など多くの流行語を生んだ。高視聴率から「お化け番組」の異名も。
1977年(昭和52年)
日航機を乗っ取り
パリ発東京行きの日本航空機が武装した日本赤軍の5人組に乗っ取られた。犯人は同機をダッカ空港に
強制着陸させた後、服役中の「同志」釈放と身代金を要求。政府は「超法規的措置」として要求受け入れを
決め、人質の乗客乗員156人は無事釈放された。
1970年
ナセル大統領が急死
アラブ連合(現エジプト)のナセル大統領が急死した。52歳。軍事クーデターで国王を追放し、
56年大統領に就任する。スエズ運河国有化やアスワン・ハイ・ダム建設など社会主義政策を進めた。
67年の第3次中東戦争ではイスラエルに敗れてシナイ半島を失う。
1924年
初の世界一周飛行に成功
米陸軍航空隊のダグラス機2機が米シアトルに帰着し、初の世界一周飛行に成功した。3月17日に
カリフォルニア州サンタモニカを出発。73カ所を175日間、正味360時間で飛んだ。この成功で
ダグラス社は、陸軍から偵察機50機、75万ドル分を受注した。
1981年
仏新幹線が営業開始
パリ−リヨン間(425キロ)を2時間40分で結ぶフランスの新幹線列車TGVが開通、営業運転を始めた。
最高時速380キロ、騒音を考慮した営業運転で260キロと東海道新幹線を抜く「世界一の超特急」。
オレンジ色、流線型のスマートな車体の重量は、日本の新幹線の半分以下。
1961年(昭和36年)
「柏鵬時代」が到来
日本相撲協会は新番付編成会議で柏戸、大鵬の両大関を満場一致で横綱に推薦。使者が両大関に
昇進を伝えた。大鵬は21歳4カ月で史上最年少横綱。前年の栃錦の引退で「栃若時代」に終止符が
打たれ、相撲界は「柏鵬時代」に入った。
1950年(昭和25年)
伊藤律ねつ造会見
GHQによる追放令で潜行中の共産党中央委員・伊藤律との独占会見記が朝日新聞に載る。
会見場所は兵庫県の六甲山中。しかし、記事は神戸支局記者のねつ造と分かった。
伊藤はゾルゲ事件の真相を知る人物とされ、80年には逃亡先の中国から帰国したが89年没。
1939年
ワルシャワ陥落
1日のドイツ軍のポーランド侵攻で第2次世界大戦が始まったが、この日、首都ワルシャワが陥落。
機械化されたドイツ軍の戦車隊に対してポーランド軍はまだ騎兵隊もあって、後退を繰り返した。
翌日には独ソ友好条約が結ばれ、ソ連との間で分割占領される。
9月26日
1983年
米の不敗神話崩れる
世界最大のヨットレースの第25回アメリカズカップの決勝最終戦が行われ、オーストラリアの挑戦艇が
米国の防衛艇「リバティ」を破り、通算4勝3敗で王座を奪取した。米国は1851年の第1回以来、
24連覇で不敗を誇っていた。
1960年
大統領選でテレビ討論
米大統領選でケネディ(民主党)、ニクソン(共和党)両候補による史上初のテレビ討論が行われた。
ケネディはさわやかな若さをアピール、ニクソンはメイクで明るさを装ったものの、しきりに汗をぬぐった。
このテレビ討論を機に形勢はケネディ有利に傾いた。
1954年(昭和29年)
台風の特異日
旧国鉄の青函連絡船洞爺丸が強風で転覆、海難事故では戦後最大の死者・行方不明者1155人を
出した。これが洞爺丸台風。5年後の59年には、伊勢湾台風が紀伊半島から名古屋を直撃し、
死者・行方不明者は5098人に達した。両年とも「台風15号」だった。
1904年(明治37年)
小泉八雲が死去
作家のラフカディオ・ハーン(日本名・小泉八雲)が、東京・大久保の自宅で心臓病のため急死。54歳。
ギリシャ生まれで米国で新聞記者になった後、1890年に来日し帰化。東大などで英文学を教える傍ら
「心」「怪談」「霊の日本」など日本に関する英文の随筆、物語を著した。
1970年
レマルクが死去
反戦文学で知られた米作家エリッヒ・レマルクがスイスのロカルノで死去。72歳。ドイツ生まれ。
第1次大戦での経験をもとに、戦争の絶望を描いた「西部戦線異状なし」(29年)は世界的ベストセラーに。
後に米国に移住、「凱旋門」などを発表した。
1961年(昭和36年)
国内線にジェット機
日航が羽田−札幌間に国内線初のジェット旅客機、コンベア880を就航させた。
90人乗りで、約1時間で飛び、当時としては最速の旅客機。1カ月後には羽田−福岡間にも就航した。
全日空のジェット機運航は64年5月からで、機種はボーイング727。
1959年
セイロン首相暗殺
セイロン(現スリランカ)のバンダラナイケ首相が僧服の暴漢に銃撃され、翌日死亡した。
同首相は56年の総選挙で親西欧的な前政権を破り、社会主義に立脚した中立外交を推進。
60年の選挙では夫人のシリマボ・バンダラナイケが世界初の女性首相に就任する。
1936年(昭和11年)
在郷軍人会令を公布
「帝国在郷軍人会令」がこの日公布され、翌月11日から施行された。10年創設の民間機関だった
会員300万人以上の同会は、陸・海両大臣所管の公的機関となった。政府が推進する「新体制運動」の
一翼を担い、国防思想普及の先兵としての役割を果たした。
1965年(昭和40年)
「みどりの窓口」を開設
コンピューターを使って特急券などの予約状況を調べ、発売する国鉄の「みどりの窓口」が全国152の
主要駅などで営業を開始した。計467台の端末装置は東京・秋葉原の大型コンピューターと結ばれ、
予約券が瞬時に発売できるようになった。
1960年
原子力空母エンタープライズ進水
世界初の原子力空母エンタープライズが米バージニア州の海軍造船所で進水した。
全長332メートル、排水量7万5000トンで、燃料の補給なしに世界を20周する能力を持つ。
68年、長崎県・佐世保港に寄港。日本の核基地化へつながるとして学生らが反対運動を行った。
1950年(昭和25年)
「オー・ミステイク」
日大職員給料約190万円を強奪した19歳の同大運転手が逮捕された。捕まったとき一緒にいた恋人は
同大教授の娘で、彼女に向かって「オー・ミステイク」。腕にはジョージの入れ墨、取り調べにも
片言の英語を使うなど二世気取り。戦後的犯罪の典型と話題に。
1938年
初のグランドスラム達成
米国のジョン・バッジが全米テニス選手権で優勝。それまでの全豪、全仏、全英と合わせ、
世界の4大タイトルを独占するテニス史上初のグランドスラムを達成した。気さくな人柄で人気を集めた
バッジは、全米の男子ダブルス、混合ダブルスでも優勝した。
9月23日
1984年(昭和59年)
蔵前も「千秋楽」
戦後の35年間、大相撲の代名詞でもあった蔵前国技館が、この日の秋場所千秋楽を最後に歴史の幕を
閉じた。平幕の多賀竜が優勝したこの場所を含め、103場所が行われた蔵前の最後に当たり、
春日野理事長は「感慨無量」とあいさつ。翌場所からは両国国技館時代が始まった。
1960年(昭和35年)
偽「永仁の壺」事件
陶芸家の加藤唐九郎が滞在中のパリで、重要文化財「永仁の壺」は自分の作品だと衝撃の告白。
壺は鎌倉時代の織部とされていて、重文指定は取り消された。52年、加藤は人間国宝になり、
事件後は公職を捨て”野の陶人”と称して旺盛な制作を続けた。
1952年
マルシアノがヘビー級王者
米フィラデルフィアのプロボクシング世界ヘビー級タイトルマッチで、ロッキー・マルシアノがチャンピオンを
破り王者に。マルシアノはデビュー戦以来43戦全勝、うち38戦がKO勝ち。
この後6回のタイトルマッチに全て勝ち、無敗のまま56年引退する。
1939年
精神分析のフロイト死去
オーストリアの精神科医で精神分析の創始者ジークムント・フロイトが、亡命先のロンドンで死去。83歳。
人の心に無意識層が存在すると考え、精神分析学の基礎的理論を展開した。主著に「ヒステリー研究」
「精神分析学入門」など。
1982年(昭和57年)
岡田社長を解任
「古代ペルシャ秘宝展」の偽出品物事件で三越は、岡田茂社長を解任した。役員会での予想しなかった
造反劇。解任決議をされると、10年間君臨してきたワンマン社長は一言「なぜだ」。
納入業者とのスキャンダルも発覚、10月には、特別背任容疑で逮捕される。
1968年
アブシンベル神殿移転
エジプト・ナイル川のアスワンハイダム建設による水没から救うため、アブシンベル神殿の移設工事が
完了した。遺跡は、岩山に作られたもので神殿前にはラムセス2世の20メートルもの巨大な像が4体並ぶ。
ユネスコが募金を呼びかけた。移転費用は約130億円。
1922年
米でケーブル法が成立
ハーディング米大統領がホワイトハウスで、米国人女性が外国人と結婚しても米国籍は消滅しないとする
ケーブル法に署名した。夫の国の政治的束縛から米国女性を解放することを狙ったもので、
従来は外国人と結婚した女性は自動的に米国籍を失っていた。
1911年(明治44年)
「人形の家」を初演
坪内逍遙を会長として再出発した文芸協会が、坪内邸でイプセンの「人形の家」を初演した。
演出は訳者でもある島村抱月。ヒロインのノラを演じた松井須磨子が好評で、自我に目覚めたノラが
家を出て行く場面は「女性解放の宣言」として話題を呼んだ。
1986年
ホンダがF1初制覇
自動車レースのF1(フォーミュラ・ワン)第14戦のポルトガル・グランプリで日本製エンジンを積んだ
ウィリアムズ・ホンダのナイジェル・マンセル選手が優勝。
ホンダはエンジンメーカーとしてコンストラクターズチャンピオンになり、F1を初制覇する。
1981年
米最高裁に初の女性判事
米上院本会議が、レーガン大統領により連邦最高裁判事に指名されたサンドラ・オコーナーを全会一致で
承認した。191年の米最高裁史上、女性判事の誕生は初めてで、「歴史的任命」「女性運動の偉大な勝利」
と米マスコミも賛辞を贈った。
1973年(昭和48年)
志ん生が死去
落語家の古今亭志ん生が東京・西日暮里の自宅で心筋梗塞で亡くなった。83歳。
若い頃の貧乏と大酒飲みは有名。破天荒な人生で、同時代の名人、桂文楽の技巧に対し天衣無縫の芸と
呼ばれた。熱烈なファンが多く、歴代落語家の中で今も人気ナンバーワン。
1933年(昭和8年)
宮沢賢治が死去
詩人・童話作家の宮沢賢治が死去。37歳。花巻町(現花巻市)生まれ。盛岡高等農林学校を卒業後、
農業研究者、農村指導者として活躍する傍ら、詩集「春と修羅」、童話「銀河鉄道の夜」「風の又三郎」
「セロ弾きのゴーシュ」などの名作を残した。
1984年
米大使館に爆弾車
レバノンの首都ベイルート郊外の米大使館別館に爆弾を積んだ車が突っ込み、爆発した。
死者6人、負傷者35人。館内では、駐レバノンの米英大使の定例会議が終わった直後で、
両大使も怪我を負った。事件後「イスラム聖戦機構」と名乗るグループが犯行声明。
1957年(昭和32年)
国産ロケット打ち上げに成功
糸川英夫東大教授らによる日本初の観測用ロケット「カッパー4C型」1号機の打ち上げが秋田県の
実験場で行われ、成功した。全長5.93メートル、重量378キロの1号機はブースターを分離後、
高度4万5千メートルに達し、宇宙線を観測した。
1948年(昭和23年)
「暮しの手帖」創刊
花森安治らが「暮しの手帖」を創刊した。初めは「美しい暮しの手帖」で、現在の雑誌名になったのは
53年から。花森は戦前、大政翼賛会宣伝部で戦争協力した反省から「暮らし」の合理化を目指す
雑誌作りに取り組み、独自の商品テストで読者の信頼を得た。
1946年
第1回カンヌ映画祭を開催
戦後初の国際的芸術祭である第1回「カンヌ映画祭」が南フランスで開催された。
作家のフィリップ・エルランジェの提唱が実を結んだ物で、グランプリには鉄道労働者のナチスへの
レジスタンスを描いたルネ・クレマン監督の「鉄路の闘い」が選ばれた。
9月19日
1985年
メキシコ大地震
メキシコ南西部でマグニチュード8.1の大地震が発生。人口1700万人の首都メキシコ市を中心に
高層ビルの倒壊や火災の発生などで大きな被害が出た。死者は約8000人に達したが、
1週間後、倒壊した病院の中から新生児が助け出され、「奇跡だ」と。
1965年(昭和40年)
23歳の名人誕生
囲碁名人戦で林海峰8段が坂田栄男名人を4勝2敗で破り、名人位を奪取した。
下馬評では、カミソリの異名を持つ坂田が圧倒的に有利だったが、柔軟な二枚腰ではね返した。
林は台湾出身の23歳。初挑戦で名人誕生になった。本因坊なども獲得、一時代を画す。
1921年
世界初の高速道路が完成
ドイツ・ベルリンのグリューネワルト〜ワンゼー間に世界初の高速自動車道路「アブス」が完成した。
長さ10キロ、2車線でタール舗装され、車線間には緑地帯を設置。10カ所にはコンクリート製陸橋を
設けて、全区間立体交差にした。
1902年(明治35年)
正岡子規が死去
俳人、歌人、随筆家の正岡子規が肺結核のため、東京・上根岸で死去。35歳。松山に生まれ、
東京帝大在学中に夏目漱石と親交。1897年から俳紙「ホトトギス」を指導。写生俳句、写生文を提唱し、
短歌革新に着手した。晩年は「墨汁一滴」など写生文の名随筆を残した。
1981年
ギロチンに幕
フランス国民議会が死刑廃止法案を可決、1792年以来、死刑執行に使われてきたギロチンが
姿を消すことになった。2本の柱の間につった斧が落下して首を切り落とすギロチンの名称は、
これを提案した医師ギヨタンの名に由来。
1978年(昭和53年)
マンモス書店開店
日本最大のマンモス書店「八重洲ブックセンター」が東京駅八重洲南口にオープンした。
在庫書籍は20万点、100万冊。「どんな本でもすぐ手に入る書店がほしい」という
鹿島の故鹿島守之助会長の遺志を継いでつくられ、開店披露には政財界人も顔をそろえた。
1954年(昭和29年)
新潟などに「黒い雨」
台風14号の影響でこの日、正午頃から夜にかけて新潟市で降った雨から、1リットル当たり
1840カウントの放射能が検出されるなど、日本海側各地で放射能雨の騒ぎが相次いだ。
これらの放射能はシベリア大陸からの北西の風がもたらしたもので、ソ連の原爆実験によるものと
みられた。
1947年
米国防総省が発足
米国の陸海空の3軍を指揮下に置く国防総省が発足した。7月成立の「国家安全保障法」に基づくもので
懸案だった軍の対立の解消や指揮系統の一本化を図るのが目的。1省としては世界最大規模で、
5角形をした庁舎の形から、ペンタゴンと呼ばれる。
1983年
米国一の美女に初の黒人
米ニュージャージー州で行われたミス・アメリカ・コンテストで、ニューヨーク州選出のバネッサ・ウィリアムズ
が黒人として初めてミスの座に輝いた。音楽とダンスを専攻する20歳の大学生。黒人のこれまでの
最高位は80年の5位。今回は2位も黒人だった。
1982年(昭和57年)
サッチャー英首相来日
英国のサッチャー首相が来日した。保守党党首時代や79年の東京サミット出席を含め来日は3度目。
今回の目的の一つが日産自動車の英国進出問題で、川又克二会長と長時間会談。
乗用車工場の進出を強く要請したが、日産側は決断の難しさを説明した。
1970年
ソニーがNY市場に上場
ソニーの株式が世界最大の証券市場、米国のニューヨーク証券取引所に上場され、初取引が行われた。
日本企業の上場は初めてだった。同取引所の上場基準は厳しく、全銘柄約1300のうち外国企業は
まだわずかで、ソニー上場は35番目の外国企業だった。
1964年(昭和39年)
モノレール羽田線が開通
国電浜松町駅−羽田空港間に、初の営業モノレールが開通した。距離13キロ、平均時速50キロで
到達時間20分と短いが、首都高速道路の渋滞もあり、羽田空港への主要な足となった。開業日のこの日、
午前6時20分の始発には徹夜組も含め、約200人が列をつくった。
1982年
難民キャンプで大虐殺
レバノンの首都ベイルート近郊にあるパレスチナ難民キャンプで虐殺事件が起き、犠牲者は子供や老人
を含め1500人に達した。親イスラエルのキリスト教徒右派民兵が襲撃、同地に進駐中のイスラエル軍も
黙認していたことが分かり、国際世論の非難を浴びる。
1977年
「世紀のプリマ」が死去
「世紀のプリマドンナ」といわれたソプラノ歌手、マリア・カラスが心臓発作のため、パリの自宅で死去。
53歳。たぐいまれな美声と気品のある容姿で、第2次大戦後の世界のオペラ界でブームを巻き起こした。
48、49両年に2度来日。
1954年(昭和29年)
中央競馬会が発足
競馬の健全な発展と畜産振興に寄与することなどを目的とする「日本中央競馬会法」に基づき、
日本中央競馬会が発足した。全額国庫出資の特殊法人で、売り上げの約75%が勝ち馬投票券の
払戻金に、残りは国庫納付金、競馬運営費などに充てられる。第1回競馬は25日に開催された。
1923年(大正12年)
大杉栄ら虐殺
関東大震災の戒厳令下、憲兵隊麹町分隊長の甘粕正彦がアナーキズム指導者、大杉栄、
妻の伊藤野枝、7歳のおい橘宗一を憲兵隊本部に連行、3人を殺害した。甘粕は軍法会議で懲役10年の
刑を受けるが、3年後には仮出獄、軍部による満州侵略計画にかかわる。
9月15日
1976年
フォード社がスト突入
米フォード社の従業員約16万5000人が全米22州の102の工場などで一斉にストに突入した。
賃上げや失業手当の増額、有給休暇増などの要求に対する会社側回答を不満としたもの。
当時、米史上最大規模のストといわれる。同社は自動車生産では全米第2位。
1973年(昭和48年)
シルバーシート登場
老人や身体障害者の優先席「シルバーシート」が「敬老の日」のこの日、東京の国電(現JR)中央線に
初登場した。74年9月には山手線、75年9月には京浜東北線と順次拡大。
また75年暮れからは私鉄各社も実施し、電車やバスなどの優先席が定着していく。
1932年(昭和7年)
日本が満州国を承認
日本と「満州国」との間で議定書が調印され、日本が正式に「満州国」を承認した。調印式は新京(長春)で
行われた。国際連盟が満州事変調査団を派遣する中、満州を実質的に支配するため「満州国」を
既成事実化しようとする日本に国際社会の非難が集まった。
1916年
実戦に戦車初登場
英国軍が、北フランス・ソンムでの対ドイツ戦線で初めて戦車を使用した。英軍は、57ミリ砲2門などを
備えたマーク型戦車49両を用意したが、故障などで実戦に登場したのは9両だけ。大きな戦果は
なかったが、異様な形の新兵器は敵に心理的圧迫を与えた。
1982年
グレース王妃が事故死
モナコ公国のグレース王妃は自ら運転していた乗用車がカーブを曲がりきれず40メートルの崖下に
転落、死亡した。同乗していた17歳のステファニー王女は軽傷。レーニエ公とは56年結婚。
ハリウッド女優からモナコ王妃への転身は、現代のシンデレラといわれた。
1963年
5つ子を無事出産
米サウスダコタ州のアンドルー・フィッシャー夫人が、女児4人、男児1人の5つ子を無事出産した。
米国では1776年から1959年まで7組の5つ子が生まれたが、いずれも死亡。記録上、今回が初の
5つ子誕生となった。
1958年(昭和33年)
伊之助が差し違え
大相撲秋場所初日、横綱の栃錦と北の洋戦で、立行司の式守伊之助は栃錦に軍配。
しかし検査役から物言いがつき、北の洋の勝ちとなったが、伊之助は軍配を譲らず十数分間も抵抗。
場所中の出場停止処分を受けた。ヒゲの伊之助の一徹さを物語るエピソード。
1900年(明治33年)
女子英学塾が開校
30年前に「8歳の海外留学生」として話題を呼んだ津田梅子が、東京・麹町に女子英学塾を開設した。
計15年間にわたる2度の米国留学と華族学校教師としての経験を生かしての開校だったが、
まだ女子高等教育への関心は低く、生徒数は10人のスタート。後の津田塾大学の前身となった。
9月13日
1993年
暫定自治宣言に調印
「パレスチナ暫定自治宣言」の調印式が米ホワイトハウスで行われ、ラビン・イスラエル首相とアラファト・
パレスチナ開放機構議長が歴史的な握手を交わした。翌年、先行自治区が誕生、アラファト議長は
27年ぶりにガザに入り、自治政府本部を置いた。
1988年(昭和63年)
国内ネットにウイルス
コンピューターウイルスが当時国内で普及していたパソコン通信ネットPC−VANに侵入していることが
分かった。同ネットは会員約45000人で約10人がパスワードを盗まれるなどの被害にあった。
日本のパソコン通信ネットにウイルスが登場したのは初めて。
1986年
富田勲がNYコンサート
シンセサイザー奏者、富田勲の野外コンサート「地球賛歌」がニューヨークのハドソン川のほとりで
開かれた。夜空に花火が打ち上げられレーザー光線が走る。地上や船、ヘリコプターに取り付けられた
多数のスピーカーから演奏音が10万人の観衆に降り注いだ。
1975年(昭和50年)
棟方志功が死去
縄文的な美で国際的にも著名な「ムナカタ板画」の棟方志功が肝臓がんのため、都内の自宅で死去。
72歳。青森市に生まれ、絵画を独学。28年に油絵で帝展入選の後、版画に転向。帝展特選のほか、
各種国際版画展でも大賞を獲得。代表作に「大和し美し」など。
9月12日
1977年(昭和52年)
自動焦点カメラ完成
被写体に向けてシャッターを押すだけで自動的にピントを合わせてくれるカメラが完成した。
小西六写真工業のコニカC35AFで、自動露出にストロボを内蔵。オートフォーカスは夢のカメラといわれ、
開発は長年の課題だったが、初めて商品化に成功した。
1959年(昭和34年)
「世界のオザワ」へ一歩
桐朋学園指揮科助手でフランス留学中の小沢征爾が、同国ブザンソンでの国際指揮者コンクールで
優勝。「世界のオザワ」へ向け、一歩を踏み出した。24歳の小沢は、2月に音楽修行に旅立ち、コンクール
出場を決めたのは6月になってからだった。
1953年
フルシチョフ第1書記就任
ソ連共産党第1書記にフルシチョフが就任。半年前のスターリン死去後、急速に勢力を伸ばしトップに。
貧しい生まれで板金工として働き、大衆の要求を吸い上げる能力に優れた、たたき上げ派。
「スターリン批判」は3年後で、東西関係の「雪解け」を進めた。
1943年
独軍がムッソリーニ救出
7月にイタリア首相を解任されて以来、ローマ西北の山中のホテルに幽閉されていたムッソリーニが、
ドイツ軍部隊により救出された。部隊はグライダーで山頂に降下、警備の不意をついた。ムッソリーニは
その後、ヒトラーの支援で北イタリアに新政権をつくった。
9月11日
1989年
地球環境会議が始まる
国連と日本政府共催の「地球環境保全に関する東京会議」が始まった。
国連環境計画(UNEP)事務局長は、人類共通の脅威は地球温暖化と指摘。このままでは海面上昇や
気候変化によってバングラデシュなどの低地沿岸で5000万人の”難民”が生まれると警告。
1971年
フルシチョフが死去
ソ連のニキタ・フルシチョフ元首相が、心臓発作のためモスクワの病院で死去。77歳。スターリンの死後に
台頭し、58年に首相就任。55年にスターリン批判を展開。60年代は東西緊張緩和に努めた。
しかし、外交・農業政策の失敗で64年に解任され、モスクワ郊外で年金生活を送っていた。
1949年(昭和24年)
岩宿遺跡を発掘
群馬県桐生市近くの岩宿遺跡を明治大学考古学研究室が発掘調査、日本で初めて旧石器時代文化の
存在を確認した。きっかけは、地元の考古学研究家、相沢忠洋が納豆の行商をしながら発見した石器。
長さ約5センチの黒曜石製の石槍で旧石器時代のものと分かった。
1905年(明治38年)
「関釜連絡船」が就航
山陽鉄道系の山陽汽船が下関−釜山間を11時間半で結ぶ関釜連絡船の第1号「壱岐丸」(旅客定員
317人)を就航させた。これで山陽鉄道と京釜鉄道(京城−釜山)が連絡し、東京から京城(現在のソウル)
への旅は60時間と短くなった。1等船室のある上甲板はレストランなども備え一流ホテル並み。
1990年
最高国民評設置で合意
カンボジア紛争の政治解決を目指す同国4派の協議がジャカルタで行われ、国連安保理和平案を
受け入れ、国権の象徴となる最高国民評議会を設置することで合意した。4派の合意で同国は和平に
向けて踏み出し、93年5月の総選挙を経て新憲法も公布され、立憲君主体制が発足した。
1988年
グラフがグランドスラム
テニスの全米オープンで19歳のシュテフィ・グラフ(西ドイツ)がガブリエラ・サバチーニ(アルゼンチン)を
破り優勝。グラフは、全豪、全仏、全英に続き4大大会制覇、年間グランドスラムを達成した。
女子では70年のマーガレット・コート以来で史上3人目。
1953年(昭和28年)
5社協定
人気スターや監督の引き抜きを防ぐため、大手映画会社の松竹、東宝、大映、新東宝、東映が
5社協定を結んだ。日本映画の黄金期で、スターの専属権・優先契約制などを確立して契約金を抑え、
協定に加わっていない日活や独立プロに対するけん制の意味も。
1951年(昭和26年)
「羅生門」にグランプリ
イタリアの第12回ベネチア国際映画祭で、黒沢明監督の「羅生門」がグランプリ(大賞)を獲得した。
日本映画の国際映画賞獲得は初めてで、「クロサワ」の名前を世界に知らしめた。監督は受賞の報に
「日本の現実に触れた題材で入賞できたら、もっとうれしい」とコメントした。
1987年(昭和62年)
高速道2000キロ貫通
東北自動車道・浦和インターと首都高速川口線をつなぐ21.3キロ区間の工事が完成した。
首都高速を介して東北、常磐、東関東自動車道が結ばれ、西の東名、中国、九州自動車道などとあわせ、
青森から熊本県・八代インターの2002キロの高速道路が1本に。
1980年
イラン・イラク戦争
イラン、イラク両軍が国境付近で交戦状態に入った。両国は国境問題をめぐり、4月から小競り合いを
続けていたが紛争はエスカレート、22日には双方が空港などを爆撃、全面戦争に突入。
イスラム教の宗派間の対立など根深い背景も絡んで戦争は長期化する。
1956年
プレスリーにくぎ付け
米ロック歌手エルビス・プレスリーが全米向けテレビ番組「エド・サリバン・ショー」に出演、82.6%の
空前の視聴率を獲得し、スーパースターの地位を確立した。2年前の「ザッツ・オールライト・ママ」の
ヒットでポップス界に躍り出たプレスリーはその後、大ヒットを連発した。
1955年(昭和30年)
「暴力教室」を禁止
神奈川県児童福祉審議会が、全国で問題となっている米映画「暴力教室」を県青少年保護育成条例に
基づき、青少年の観覧禁止を決定した。教室の荒廃にメスを入れた先駆的作品だったが、暴力場面が
問題とされ、文部省も4日後に神奈川と同様の通達を全国に出した。
1986年(昭和61年)
社会党、初の女性党首
社会党の臨時党大会で第10代委員長に土井たか子が就任、初の女性党首が誕生した。
「じり貧の社会党をなんとか立て直してほしい」という期待を背に受け、6日の委員長選挙では
約8割を得票、対立候補に圧勝。前向きの「やるっきゃない」で人気になった。
1971年
林彪のクーデター失敗
中国共産党副主席の林彪が毛沢東主席の暗殺を企て軍事クーデターを起こしたが失敗する。
13日、ソ連へ向けジェット機で逃亡中にモンゴルで墜落死。毛沢東の後継者と目されていたが、
一転して裏切り者へ。中国当局がこの林彪事件の全容を発表したのは80年。
1969年
2度目のグランドスラム達成
米ニューヨーク州での第2回全米オープンテニス選手権大会男子シングルス決勝で、オーストラリアの
ロッド・レーバーが同国のトニー・ローチを下し、62年に続く2度目のグランドスラムを達成した。1人で2度の
グランドスラム達成は史上初めて。
1910年(明治43年)
国産飛行船が初飛行
山田式1号飛行船が飛行に成功し、日本人が初の国産飛行船で空を飛んだ。東京府荏原郡の
山田気球製作所の構内で、製作した山田猪三郎の門下生、折原国太郎が乗り込んだ長さ30メートル、
900キロの船体は気のうにガスが詰められると宙に浮いた。自動車用発動機も快調で正確に進路をとり、
駒場の農場に着陸した。
9月7日
1987年(昭和62年)
新国劇が解散
劇団・新国劇が解散した。沢田正二郎が70年前に旗揚げ、戦中から戦後には辰巳柳太郎、島田正吾の
二枚看板を擁し「国定忠治」や「一本刀土俵入」で全盛期を迎える。
だが、義理と人情、迫力ある殺陣(たて)も、テレビの普及や商業演劇の女性路線定着で劣勢に。
1962年(昭和37年)
吉川英治が死去
大正・昭和期を代表する大衆文学作家、吉川英治が肺がんなどのため、都内の病院で死去。70歳。
小学校卒業後、職業を転々としながら苦学。「鳴門秘帖」で大衆小説作家の地位を固め、「宮本武蔵」
「新書太閤記」などを発表。60年に大衆文学作家として初の文化勲章を受けた。
1940年
ロンドン大空襲
第2次世界大戦で英国の首都ロンドンをドイツ空軍の900機の大編隊が爆撃を開始。
空襲は65日間続き、ロンドン市民は防空壕で耐え抜いた。再編成された英国空軍が反撃に転じ、
ドイツ軍をはね返す。この戦いが「バトル・オブ・ブリテン(英国の戦い)」。
1911年
「モナ・リザ」事件で詩人逮捕
フランス警察が、世界を騒がせた名画「モナ・リザ」盗難事件に絡み、犯人を隠匿した容疑で
詩人・小説家のギヨーム・アポリネールを逮捕した。パリのルーブル美術館に展示されていた「モナ・リザ」が
盗まれたのは8月22日。絵は2年後イタリアで発見され、回収された。
1993年(平成5年)
逸見政孝、闘癌宣言
テレビの人気司会者、逸見政孝が記者会見で、自ら癌であることを公表し、治療に専念することを
明らかにした。公表したのは「これから癌と闘うのだと自らに言い聞かせるため」と気持ちを率直に説明。
しかし、治療のかいなく12月25日、48歳で亡くなる。
1984年(昭和59年)
韓国大統領が初来日
韓国の全斗煥大統領が婦人とともに、国賓として来日した。韓国元首の来日は初めて。83年に訪韓した
中曽根康弘首相の訪日要請にこたえた。2回の首脳会談の後「成熟した協力関係」構築などをうたった
共同声明を出し、8日に離日した。
1965年
沢田が撮った「安全への逃避」
カメラマン沢田教一がベトナム戦場で、銃弾に追われ川の急流を渡るベトナム人母子の写真を
撮ったのがこの日。「安全への逃避」と題されたカットは世界報道写真展グランプリ、
翌年のピュリツァー賞を受賞、沢田は日本のロバート・キャパと。70年戦死する。
1901年
米大統領を暗殺
第25代米大統領ウィリアム・マッキンリーがニューヨーク州での博覧会開会式に出席した際、
無政府主義者の男に短銃で撃たれ、2発の弾丸のうち1発が腹部に命中。8日後の14日に死亡した。
58歳。米政府はこの悲劇の後、無政府主義者の入国禁止とシークレット・サービスによる大統領警護を
決めた。
9月5日
1972年
血塗られた五輪村
ミュンヘン・オリンピック選手村のイスラエル・チーム宿舎に武装したパレスチナ・ゲリラ8人が侵入、
2人を射殺した上、選手団を人質に取った。ゲリラが脱出用旅客機を用意させた空軍基地に移動後、
警察との間で銃撃戦となり、人質は全員死亡。犯人は射殺、または逮捕された。
1962年(昭和37年)
金田投手が奪三振記録
後楽園球場で行われたプロ野球の国鉄対巨人戦で、国鉄の金田正一投手が通算3509個目の三振を
奪い、米大リーグ記録であるウォルター・ジョンソン投手の3508個を抜く世界新記録を樹立した。
2回2死無走者の場面で新記録となる三振を奪うと、球場は観客の拍手に包まれた。
1960年(昭和35年)
所得倍増計画を発表
与党・自民党が10年間で国民所得を倍増させる新政策を発表した。60年度の1人当たり約12万円を
3年後約15万円に伸ばす経済政策を通じて、10年後の倍増を実現するというもの。
所得倍増計画は池田勇人内閣の看板になり、見込みを上回る経済成長が実現した。
1905年
ポーツマス条約調印
日露戦争の講和条約が米ポーツマスで調印された。セオドア・ルーズベルト米大統領が
講和を渋るロシアを説得、日本の領土要求なども譲歩させて成立にこぎ着けた。
戦勝気分の日本では東京・日比谷公園で講和反対国民大会が開かれ、焼き打ち事件が起きる。
9月4日
1990年
故アジェンデ大統領の葬儀
南米チリのサンティアゴでアジェンデ大統領の葬儀が17年ぶりに行われた。
アジェンデは70年、中南米では初めて選挙による社会主義政権を樹立したが、
3年後ピノチェト率いる軍部クーデターの際に死亡。軍事政権から民政に移管されたため葬儀が実現した。
1987年(昭和62年)
新電電が営業開始
第二電電、日本テレコム、日本高速通信の新電電3社と日本電信電話(NTT)の回線相互接続が行われ、
3社の市外電話サービスが始まった。3社と契約した利用客は関東、中部、近畿のサービス圏内で
最も安い電話を選択でき、4社競争時代が始まった。
1965年
「密林の聖者」が死去
アフリカで52年間、医療活動を続け、その献身的活動で「密林の聖者」と呼ばれたフランス人医師、
A・シュバイツァー博士が、自ら建てたガボンの病院で死去。90歳。神学・哲学を修めた後、医学を学んで
アフリカに移り住み、医師・伝道牧師として精力的に活動。52年にノーベル平和賞を受けた。
1955年(昭和30年)
スタルヒンが300勝
プロ野球パ・リーグ、トンボ・ユニオンズのスタルヒン投手が大映スターズに完投勝利を飾り、
通算300勝を挙げた。当時の日本プロ野球初の記録。スタルヒンは39歳のベテラン。
36年に巨人軍での初勝利以来、戦争による中断を挟み、20年がかりで成し遂げた。
9月3日
1977年(昭和52年)
王選手が本塁打世界記録
東京・後楽園球場での対ヤクルト23回戦で巨人軍の王貞治選手が通算756号の本塁打を放ち、
元米大リーグのハンク・アーロンが持っていた755本の記録を破り、世界記録を達成。この記録達成で
9月、国民栄誉賞第1号を受けた。生涯通算は868本。
1966年(昭和41年)
荒船大臣、急行止める
荒船清十郎運輸相が選挙区内の高崎線深谷駅(埼玉県)を急行停車駅にするよう当時の国鉄に要求、
実現していたことが分かった。批判を浴びた荒船は「停車駅を増やすことがどうして悪いんだ」と憮然。
8月に運輸大臣に就任したばかりで、10月11日には辞任。
1965年
YS11を初輸出
国産旅客機のYS11のフィリピン向け輸出が決まった。同機は、双発ターボプロップの60人乗りで、
ナショナルプロジェクトとして自主開発された戦後初の旅客機。62年から74年まで試作機を含めて
182機が生産されたが、このうち75機が12カ国に輸出された。
1941年
毒ガス処刑始まる
ナチス・ドイツのアウシュビッツ強制収容所(ポーランド)地下室で、ソ連兵捕虜600人と
ユダヤ人250人が毒ガスによって処刑された。同収容所での最初の毒ガス処刑で、以後のユダヤ人
大量虐殺に備えての実験だった。同収容所で強力毒ガス、チクロンBの犠牲になったのは400万人以上と
される。
9月2日
1982年(昭和57年)
リニアモーターカー有人走行
国鉄(現JR)が開発中のリニアモーターカーが宮崎県日向市の実験センターで人を乗せ浮上走行する
実験に成功した。開発スタッフ3人が乗り込んだ実験車両は2両編成で、最高時速は262キロ。
超電導磁石を利用した浮上推進方式での有人走行は初めて。
1957年
国際ペン大会開く
第29回国際ペン大会が東京で開かれ、米国のジョン・スタインベック、イタリアのアルベルト・モラビアなど
26カ国の作家や詩人が参加した。開会の辞は川端康成日本ペンクラブ会長。
アジア初の開催で、東西間の翻訳交流の活発化などを採択して8日閉幕した。
1937年
「近代五輪の父」が死去
近代オリンピックの父と呼ばれたフランスのピエール・クーベルタンがスイスで脳出血のため急死。
74歳。1894年に古代オリンピックの復活を提唱し、国際オリンピック委員会をつくり初代会長に就任。
25年まで会長を務め「五輪は参加することに意義」などの名言を残した。
1923年(大正12年)
朝鮮人の虐殺始まる
前日の関東大震災で被害の大きかった東京、横浜などで「朝鮮人が暴動を起こした」などの流言が
広がり、各地自警団の朝鮮人暴行が始まった。内務省、憲兵隊も取り締まりを命じて迫害・虐殺に事実上
加担。この結果、虐殺された朝鮮人は6000人以上に上ったとされる。
9月1日
1990年
ライシャワー元大使が死去
知日派として知られたエドウィン・ライシャワー元駐日米大使が、肝炎のため米サンディエゴの病院で
死去。79歳。日本生まれで、ハーバード大学などで東洋文化を学び、同大教授を経て61年に
駐日大使に。66年に辞任後も日本のよき理解者であり続けた。
1983年
大韓航空機撃墜される
ニューヨーク発ソウル行きの大韓航空機がサハリン上空でソ連のミサイルによって撃墜され、
乗客乗員269人が死亡した。正規のコースを逸脱して領空を侵犯していたが、ソ連の強硬手段は
各国に衝撃を与える。あらためて北東アジア地域が強い軍事的緊張のもとにあることが浮き彫りに。
1947年(昭和22年)
労働省が発足
労働省が発足し、初代労働大臣に米窪満亮が就任した。戦後の民主化政策で組織労働者が560万人を
越え、労働行政の比重が増したことに対応。戦前は内務省社会局と厚生省が扱っていた労働行政を
独立させた。婦人少年局長に山川菊栄が就任、初の女性局長として婦人行政の基礎をつくった。
1927年(昭和2年)
レビューが大ヒット
宝塚少女歌劇が初のレビュー「モン・パリ」を初演、大ヒットする。フランスから帰国した岸田辰弥が
作・演出、ロケットダンスから階段パレードなど新しい要素をふんだんに取り入れ、観客の目を奪った。
レビュー全盛時代を迎える。