日々の出来事
11月 (岩手日報より)
3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 12月 1月 2月
11月30日
1993年
オランダで安楽死公認
オランダ議会上院は、医師による安楽死を条件付きで認める法案を可決した。安楽死の公認は世界初。
患者の明確な要求に基づくことや、医師に病気の経過、死に導いた手順などの報告を義務づけている。
3票差という小差の可決で、安楽死法は翌年施行された。
1977年(昭和52年)
立川基地を全面返還
東京・立川基地が米軍から日本側に全面返還された。基地内の旧米軍司令部前での返還式典で、
日米代表が返還書に署名。戦後32年間翻っていた星条旗に代わり、日の丸が掲げられた。
基地は20年に旧陸軍立川飛行場として開設されたが、敗戦で接収されていた。
1963年(昭和38年)
都電の撤去始まる
都民の足として親しまれてきた都電・杉並線(荻窪−新宿駅西口)が花電車を運転、お別れを告げた。
都電は40路線もあったが、モータリゼーションの波に押され、撤去が決まる。
かつてのドル箱路線、杉並線は地下鉄開通でとどめを刺され、撤去第1号になった。
1900年
ワイルドが死去
英国の詩人・劇作家のオスカー・ワイルドがパリで死去。46歳。1887年から2年間、社交雑誌
「婦人世界」の編集長を務めたころから童話集「幸福な王子」、小説「ドリアン・グレーの肖像」などを発表。
その後、戯曲「サロメ」など唯美主義の傑作を残した。
11月29日
1990年
海外渡航者1000万人突破
この年の日本からの海外渡航者が史上初めて1000万人を突破した。渡航自由化の64年は
12万8000人だったが、72年に100万人を越え、500万人到達は86年。この4年間で倍増した。
全体の84%が観光旅行。行き先は米国が3割を占め首位、韓国、香港、台湾と続く。
1980年(昭和55年)
金属バット殺人事件
神奈川県川崎市の高級住宅地で二男が就寝中の両親を金属バットで撲殺した。
父親は東大卒、兄も有名私立大卒というエリート一家。二男は2度大学受験に失敗、
日頃から兄と比較されていた。きっかけは父親のキャッシュカードを無断で使い、しかられたこと。
1971年(昭和46年)
大映が全員に解雇通告
映画会社の大映が全従業員770人の解雇を通告、事実上解散した。テレビの普及で映画産業の
不振が続く中、収入の90%以上を映画部門に依存していた大映は3月に従業員350人を整理。
社宅も売却するなどの対策を講じたが、負債は55億円以上に達していた。
1947年
パレスチナ分割を決議
国連総会が、英国の委任統治終了後、パレスチナにユダヤ国家とアラブ国家を樹立する分割決議案を
賛成33、反対13、棄権10で採択した。ユダヤ人側はこれを受け入れたが、パレスチナ全土を要求する
アラブ諸国は拒否。双方の武力衝突が相次いだ。
11月28日
1990年
25年の長期政権に幕
シンガポールの新首相の就任式が政庁ホールで行われ、ゴー・チョクトン前第一副首相が2代目首相に
就任した。これで独立以来25年間続いたリー・クアンユー政権に終止符が打たれたが、建国の父である
前首相は顧問格の上級相として新政権を支えた。
1972年
モスクワで日航機墜落
東京行き日航DC8がモスクワの空港を離陸直後に失速して数百メートル先の雪原に墜落、
乗客乗員61人が死亡した。副操縦士がブレーキ役の主翼・スポイラーを誤操作。
ボイスレコーダーには操縦室の「はいよ」「やっこらさ」という緊迫感のない会話が残っていた。
1954年(昭和29年)
富士山で15人死亡
富士山の吉田口7合目付近で幅300メートルの新雪表層雪崩が発生。登山中の約40人が
雪の下敷きとなって1000メートル以上、下に流され、このうち大学山岳部員15人が死亡した。
犠牲になったのは、日大生8人、東大生5人、慶大生2人。事故当時、現場は猛吹雪だった。
1883年(明治16年)
鹿鳴館が開館
東京・内幸町に鹿鳴館が完成、盛大に開館式が行われた。明治政府は幕末の不平等条約を改正し、
欧化政策を推し進めるために外国使節との社交場として開設。連日、夜会や舞踏会、バザーが開かれる。
レンガ造りの2階建てで英国の建築家コンドルが設計した。
11月27日
1986年(昭和61年)
三菱高島砿が閉山
105年の歴史を持つわが国最古のヤマ、三菱石炭鉱業高島砿業所(長崎県)が閉山した。
明治維新期に英国から機械を導入して立て坑をつくった日本最初の近代的炭鉱だったが、
国内炭撤退路線をとる第8次石炭政策での閉山第1号に。鉱員872人も全員解雇。
1983年
コロンビア機が墜落
南米コロンビアの国営アビアンカ航空のジャンボ旅客機がスペインのマドリード郊外に墜落、乗客乗員
194人のうち、183人が死亡した。生存者11人中、4人が重体。墜落とともに機体は火に包まれたが、
奇跡的に助かった人は機体の裂け目から脱出した。
1952年(昭和27年)
通産相が失言で辞任
10月末に成立したばかりの第4次吉田茂内閣の池田勇人通産相が衆院本会議での答弁で「中小企業の
倒産、自殺もやむを得ない」と答弁、野党が不信任案を提出した。通産相は、与党反主流派の欠席で
不信任案が衆院で可決されたのを受け、29日に辞任した。
1943年
カイロ宣言に署名
ルーズベルト米大統領、チャーチル英首相、蒋介石・中国主席がカイロで、日本の戦後処理について
初会議を行った。宣言には、日本の無条件降伏、第1次大戦以降に獲得した太平洋の領土の剥奪や、
中国から奪った満州、台湾などの返還、朝鮮独立を盛り込む。
1990年
松下がMCA買収
「ジョーズ」や「E・T」などのヒット映画で知られる米国の大手娯楽・映画産業のMCAを松下電器が
61億ドルで買収した。前年のソニーによるコロンビア映画買収に続くもので、ソフト事業進出が狙い。
しかし、松下は経営をめぐる意見の相違から95年撤退する。
1952年
探検家のヘディンが死去
スウェーデンの地理学者・探検家のスベン・ヘディンが死去した。87歳。1893〜1937年の間、4回に
わたり中央アジアを探検。漢・魏代の古代オアシス都市・楼蘭の遺跡の発見、その近くの「さまよう塩湖」
ロプノルの周期的移動の確認などの業績を挙げた。
1945年(昭和20年)
双葉山引退
69連勝の偉業を打ち立てた横綱双葉山が引退を表明。直接の原因は体力の限界だが、
相撲協会が急遽決定した土俵拡張にも大反対。「土俵を大きくすれば勝負が長引き、
興行価値が上がるだろうが、狭い土俵で妙技を競うことこそ相撲道だ」と求道者らしい弁。
1906年(明治39年)
「満鉄」を設立
半官半民の国策会社「南満州鉄道株式会社」(満鉄)の設立総会が東京・神田青年会館で開かれ、
初代総裁に後藤新平を選出した。満鉄は、日露戦争の勝利でロシアから清国の炭鉱の経営権を継承した
日本の大陸進出の一大拠点となったが、45年8月に消滅した。
1985年(昭和60年)
公募で中高年は「実年」
50、60代の新しい呼称を公募していた厚生省は「実年」を金賞に選んだ。人生で最も充実する時代という
イメージや実りのときという意味があってふさわしい・・・ が理由。
応募総数は30万通を超え、一番数の多かった「熟年」は40代を指すとして、選ばれなかった。
1953年(昭和28年)
ディオールが旋風
「ショートスカート」などの斬新なデザインで世界に衝撃を与えたパリのデザイナー、
クリスチャン・ディオールの新作ファッションショーが丸の内の東京会館で開かれた。
12人の専属モデルが約100点の作品を披露。入場料は千円と高額だったが売り切れた。
1952年
ミーニーがAFL会長
米国労働総同盟(AFL)会長にジョージ・ミーニーが就任した。ニューヨークの貧民街に生まれ、
鉛管工から組合活動家になる。55年には、合併後の米労働総同盟産別会議(AFL・CIO)の初代会長に
なり、25年間にわたって労働界に絶大な権力を振るう。
1903年
史上初の3階級制覇
米国のプロボクサー、ボブ・フィッツシモンズがサンフランシスコで行われた世界ライトヘビー級
タイトルマッチでチャンピオンのジョージ・ガードナーを破り、王者の座に就いた。これで、ミドル、
ヘビー両級と合わせ、史上初の3階級制覇を達成した。
1966年
アジア開発銀行設立
アジア初の地域開発銀行、アジア開発銀行の設立総会が東京・芝の東京プリンスホテルで開かれた。
オブザーバーを含む32カ国の代表らが集まり、初代総裁に渡辺武を選出。域内の発展途上国の
経済開発を促すのが目的。本部はマニラで、2000年現在58の国・地域が加盟。
1963年
ケネディ暗殺犯を射殺
米テキサス州ダラスでケネディ大統領を暗殺したとして逮捕されたリー・オズワルドが、ダラス市拘置所で
護送車に乗る際、市内の劇場主ジャック・ルビーに射殺された。犯行を否認していた容疑者の死で、
大統領暗殺事件の真相は闇に閉ざされた。
1949年(昭和24年)
「光クラブ」事件
やみ金融業「光クラブ」の社長で東大法学部3年の山崎晃嗣が青酸カリを飲み自殺した。
山崎は友人と金融会社を設立して東京・銀座に進出。やみ金融容疑で捜査を受けて信用を失い、
3000万円の金策がつかず、死を選んだ。三島由紀夫「青の時代」のモデル。
1945年(昭和20年)
サイクロトロンを破壊
連合国軍総司令部の指令で、米第8軍工兵隊が理化学研究所のサイクロトロン(イオン加速器)の
取り壊し作業を開始した。京都、大阪両大学のサイクロトロンの破壊命令も出された。44年までに完成した
理研の大小2基の加速器は原子核分裂の研究用だった。
11月23日
1980年
伊南部で大地震
イタリア南部でマグニチュード6.8の直下型大地震が起き、数千人の死者が出た。被害が大きかった
のはナポリ、サレルノ地方などで、20万人以上が家を失った。3万人以上の死者が出た15年の
アプルッツェン地震以来、イタリアでは最大規模のものだった。
1964年(昭和39年)
開業以来の大事故
静岡県磐田市の東海道新幹線の下り線路上で砂利固め作業をしていた作業員が始発の新大阪行き
「こだま」にはねられ、5人が即死、5人が重軽傷を負った。この事故で下りは一時不通となった。
10月1日に開業したばかりの同新幹線では初の大事故だった。
1936年
「ライフ」創刊
米国で写真週刊誌「ライフ」が創刊される。トップ写真は生まれたばかりの赤ちゃんが医師の両手の中で
産声を上げている瞬間。反響を呼び創刊号38万部はたちまち売り切れ。バークホワイトら優れた写真家を
起用、フォトジャーナリズム時代の幕開けとなった。
1896年(明治29年)
樋口一葉逝く
小説家で歌人の樋口一葉が逝く。父の死で一家を担い、東京の吉原遊郭近くの下谷竜泉寺町で
駄菓子屋を開くが失敗。転居して創作に専念「たけくらべ」「にごりえ」など名作を生む。
流麗な文体で明治の女を描き絶賛されるが、肺結核に冒された、数えで25歳。
1990年
サッチャー英首相辞任
「鉄の女」サッチャー英首相が辞任を表明した。競争原理と自助努力を説き、蔓延していた「英国病」を
克服するなど、硬派の保守路線で英国を引っ張ってきた。だが、弱者の負担増につながる人頭税導入で
サッチャー批判が噴き出し、11年半の長期政権に幕。
1975年
44年ぶりに王政復活
スペインのフアン・カルロス王子が国会で国王に即位すると宣誓、31年に廃止された王政が44年ぶりに
復活した。3年に及ぶ内戦後の39年以降、独裁政治を続けてきたフランコ総統が20日に死去したことを
受けたもので、王政のもとで民主化が進められた。
1968年(昭和43年)
JAL機が不時着水
日本航空の「志賀号」(DC8)が米サンフランシスコ空港に着陸しようとして失敗、滑走路手前の湾上に
不時着水した。乗客乗員計107人は全員無事に救出された。ジェット機の不時着水事故で犠牲者が
出なかったのは、航空史上初めてだった。
日航機が不時着水
日本航空のDC8ジェット旅客機「志賀」号が米サンフランシスコ空港沖の海上に不時着水した。
乗客乗員107人は奇跡的にかすり傷ひとつ負わず全員救助される。
霧のため、計器飛行で着陸しようとして海面に突っ込んだが、水深が浅かったのが幸いした。
11月21日
1989年(平成元年)
連合が結成大会
50年の誕生以来、労働運動の中心的存在になってきた日本労働組合総評議会(総評)が解散、
民間労組と官公労組を統一した日本労働組合総連合会(連合)の結成大会が東京で開かれた。
組織人員は約800万人と、労働運動史上空前の規模となった。
1978年(昭和53年)
「空白の1日」
”怪物”と騒がれた投手の江川卓と読売巨人軍が野球協約の盲点を突き、電撃的に入団契約を結ぶ。
前年の交渉権が切れ、ドラフト会議を翌日に控えた”空白の1日”が根拠。
曲折の末、江川は阪神からトレードで巨人入団を果たす。「エガワル」が流行語になった。
1921年
クローデルが日本着任
フランスを代表する詩人で劇作家のクローデルが駐日大使として着任した。
ランボーやマラルメの流れをくむ文人大使は6年間滞日。
能や歌舞伎、墨絵、神社など日本の伝統文化にも深く親しむ。
体験は詩集「東方の認識」、評論「朝日のなかの黒い鳥」に結晶。
1903年
カルーゾがNYデビュー
歴史的な名テノール歌手と言われたイタリアのエンリコ・カルーゾが、創立20周年を迎えた
米ニューヨークのメトロポリタン歌劇場に出演、NYデビューを果たした。「リゴレット」の公爵役を演じ、
その後数年間、同歌劇場の首席テノール歌手として活躍した。
1971年(昭和46年)
ロマンポルノ封切り
日活がロマンポルノ路線をスタート、「団地妻・昼下がりの情事」などが封切られた。
経営難に陥っていた日活の低予算映画シリーズだったが、白川和子、宮下順子らの人気女優を生み、
神代辰巳や根岸吉太郎、森田芳光といった俊英監督を輩出する母体になる。
1966年
イタリアで大洪水
イタリア北部が3週間にわたって豪雨に見舞われ、国土の3分の1が冠水。この日発表された被害報告に
よれば、死者約120人、洪水に遭った市町村800,倒壊家屋1万2千戸。フィレンツェは市の40%が
冠水、貴重な文化財などに大きな被害が出た。
1948年(昭和23年)
初の公認競輪を開催
日本最初の公認競輪が九州・小倉市(現北九州市)主催で開催された。戦前の輸出の花形だった
自転車産業の振興、地方財政の窮乏を救うことなどが狙い。4日間の延べ入場者は5万5千人、
売り上げ合計は1973万円で、市当局の予想を大きく上回った。
1945年
ニュルンベルク裁判
第2次世界大戦のナチスドイツの戦争犯罪を裁く国際軍事裁判がドイツ南部のニュルンベルクで
始まった。戦争犯罪のほかにも、平和に関する罪、人道に関する罪が取り上げられた。
翌年、起訴された指導者のうち空軍総司令官ゲーリングら12人に死刑判決が下る。
1984年
メキシコで大惨事
メキシコ市の郊外で液化石油ガス貯蔵タンク3基が相次いで爆発、付近の住民ら544人が死亡、
3千人以上が重軽傷を負う大惨事となった。爆発で近くの住民約600戸が一瞬のうちに崩壊、
タンクの1基は1.6キロ吹き飛んだ。鎮火は24時間後のことだった。
1977年
サダトがイスラエル訪問
エジプトのサダト大統領がイスラエルを訪問した。アラブ諸国首脳の訪問は48年の建国以来初。
穏健派サダトの「必要ならばイスラエル国会へも行く」という発言を受けてベギン・イスラエル首相が
招待状を送った。サダトは国会演説で平和共存を訴える。
1965年(昭和40年)
戦後初の赤字国債
閣議が一般会計第2次補正予算案の大筋を決め、歳入不足分2590億円は赤字国債の発行で
賄うことを決めた。戦後初の赤字国債で、不況下の税収落ち込みが主な理由だった。野党各党は、
物価上昇の危険性などを指摘、政府の財政運営の不手際を追及した。
1956年(昭和31年)
東海道本線の電化完成
旧国鉄の米原−京都間の電化工事が終了、東海道本線全線の電化が完成した。
電化着手から31年目。煤煙による汚れの心配がなくなったため、特急「はと」「つばめ」の機関車と列車は浅
緑を基調にしたスマートな色彩に。東京−大阪間を7時間半で結んだ。
1979年(昭和54年)
東京国際女子マラソン
わが国初の公式女子マラソン、第1回東京国際女子マラソンが行われ、英国の42歳のママさん選手、
ジョイス・スミスが優勝、初代女王になった。タイムは2時間37分48秒。
女子のフルマラソンは過酷だといわれていたが、84年のロス五輪からは正式種目になる。
1978年
「人民寺院」事件
南米ガイアナのジャングルにある新興宗教「人民寺院」の入植地で、調査に訪れた米下院議員ら5人が
殺害され、さらに信者914人も毒をあおり集団自殺。教祖ジム・ジョーンズの「だれも生き残ってはならない」
の言葉に従った。ジョーンズもピストル自殺。
1974年(昭和49年)
現職米大統領が初来日
フォード米大統領が「日米間の永続的な友好関係」を話し合うため来日した。現職大統領としては
初めての訪問だったが、米国の核持ち込み疑惑で反米デモ・集会が続く中、厳戒態勢が敷かれ、
空港での歓迎行事もなかった。20日には日米共同声明が発表された。
1901年
米がパナマ運河の独占権
米国が英国との間で改定条約に調印、自由平等航行権保証と引き替えに、パナマ運河の建設・管理の
独占権を獲得した。レセップスの建設計画が挫折した後、米国は建設権を買い取ったが、別ルート運河の
建設をうたった英国との条約が障害となっていた。
1992年
マフィア掃討作戦
イタリアの警察当局が「レオパルド」と名付けた大規模なマフィア掃討作戦に乗り出し、
本拠地のシチリア島など各地で85人以上を逮捕した。84年の米国との共同作戦以来の規模で、
警察官約2000人を動員、麻薬取引や殺人などの容疑で203通の逮捕状を用意。
1974年(昭和49年)
別府保険金殺人事件
別府市で一家4人を乗せた乗用車が港から海中に転落した。夫の荒木虎美は助かったが、
母子3人は死亡。荒木が3人に3億円の保険金をかけていたことが分かり、
12月に保険金目当ての殺人容疑で逮捕。荒木は大分地裁で死刑判決を受け、上告中の89年に病死。
1933年
米ソが国交樹立
ルーズベルト米大統領は、米国がソ連を承認し、国交を正式に樹立したと発表した。ソ連の成立宣言から
11年後のことだった。国交樹立をめぐる交渉で、ソ連側は米国内で共産主義の宣伝活動はしないなどの
点で譲歩。米各紙は「新時代の始まり」と歓迎した。
1922年(大正11年)
アインシュタインが来日
相対性理論でノーベル賞を受賞した物理学者アインシュタインが雑誌社の招きで来日し、神戸港に
到着した。翌日、東京駅で大歓迎を受けた博士は19日、慶大講堂で講演。離日の際は
「建築、絵画、芸術、自然・・・。日本はことごとく美しい」という言葉を残した。
1966年(昭和41年)
間借人協会設立
民間アパートの居住者や間借り人の生活条件を向上させようと「東京間借人協会」が発足した。
水道が出なくなり家主と交渉してもらちがあかない、毎年家賃を上げられ、礼金も取られる、と
参会者から苦情続出。団結して間借り人の地位向上を図ろうと意見一致。
1965年
NYタイムズに意見広告
ベ平連(ベトナムに平和を!市民連合)がニューヨーク・タイムズ紙に1ページの反戦広告を載せた。
日本人の声を米市民に伝えようという試み。紙面は、オオワシの横で涙を流すハトの写真の下に
大見出しで「爆弾がベトナムに平和をもたらすだろうか?」。
1946年(昭和21年)
当用漢字を告示
政府が「当用漢字表」と「現代かなづかい」を告示、公布した。当用漢字は1850字で、現代かなづかいと
ともに法令、公用文、新聞その他すべてがこれに依拠することになった。戦前は一応、常用漢字1295字
があったが、強制的なものではなかった。
1913年
プルーストが大作を出版
フランスの作家プルーストが、新心理主義小説の最高傑作とされる大作「失われた時を求めて」の
第1編を自費出版した。自身の病弱や両親の相次ぐ死去。同性愛者としての体験などの過去を
独創的手法で再構築した作品で、病死するまでに7巻15冊を書き上げた。
11月15日
1975年
フランスで第1回サミット
パリ郊外のランブイエ城に米国、日本、英国など6カ国が集まり、初の主要国首脳会議(サミット)が
開かれた。会議はフランスのジスカールデスタン大統領が提唱し、世界経済が直面する諸問題で
協調を確認。参加国は現在、8カ国と欧州連合(EU)に。
1973年(昭和48年)
「そんなに急いで・・・」
全国交通安全運動の統一標語に「せまい日本 そんなに急いで どこへ行く」が選ばれた。
この年、終末論ブームが起き、石油危機でちょっぴり現実味を帯びる。
「ゆっくりズム」が叫ばれ、ウイスキーのCMも「いったい日本はどうなるのだろう」と問いかけた。
1953年(昭和28年)
戦後初の国賓が来日
アイゼンハワー米大統領特使のニクソン副大統領が、戦後初の国賓として来日した。副大統領は19日に
日米協会で演説し「米国が日本の新憲法に非武装化を盛り込んだのは誤りだった」と述べ、冷戦による
状況の変化に伴い、日本の再軍備への期待を表明した。
1905年
自動車レースで世界新
スイスのデュフォー兄弟の造った水冷式大型レーシングカーがフランスのアルル近郊で行われた
自動車レースで、時速156.521キロの世界新記録を樹立した。それまでの自動車の最高記録は、
フランスのリゴニーが出した152.542キロだった。
11月14日
1994年
高速列車ユーロスターが営業
英仏海峡のユーロトンネルを使い、パリとロンドン中心部を約3時間で結ぶ高速列車「ユーロスター」の
営業が始まった。列車はTGV型で、往復料金は食事付きの1等が約3万2000円。
飛行機の所要時間1時間10分に比べても、ドア・ツー・ドアだとかなり有利。
1988年
ピカソの「母と子」を落札
米ニューヨークでのオークションで、スペインの画家パブロ・ピカソの青の時代(1901〜4年)の作品
「母と子」が、2475万ドルで落札された。ピカソ作品の落札価格としてはそれまでの最高だった
「バードケージ(鳥かご)」の1540万ドルを抜き最高値。以後も最高値は更新されている。
1982年(昭和57年)
曲芸飛行で墜落
静岡県の航空自衛隊浜松北基地上空で、曲芸飛行中の「ブルーインパルス」のジェット機1機が、
自動車メーカーの新車駐車場に墜落した。操縦士は死亡、住民12人が重軽傷。新車40台なども
全焼した。アクロバット飛行は6機編隊で使用機は国産のT2練習機。
1930年(昭和5年)
浜口首相狙撃され重傷
浜口雄幸首相が東京駅のプラットホームで狙撃され、重傷を負った。陸軍大演習が行われる岡山に
向かうところだった。犯人の右翼団体・愛国社の社員はその場で逮捕された。陸海軍の予算削減で
軍や右翼から反感を持たれていた首相は、翌年8月に死亡した。
11月13日
1983年(昭和58年)
邦人、初のコンマス
カラヤン率いるベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の首席コンサートマスターに第1バイオリンの
安永徹が就任することになった。日本人としては初めてで、2日間にわたるオーディションに合格。
審査した常任指揮者カラヤンも「心のこもった演奏」と絶賛。
1972年
岡田嘉子が一時帰国
ソ連に亡命していた元女優の岡田嘉子が34年ぶりに里帰りした。祖国の土を踏むのは38年、
演出家の杉本良吉(故人)と樺太(現サハリン)から雪の国境線を越え「恋の逃避行」と騒がれて以来。
会見では「富士山が見えました。チクチク胸が痛くなって」と涙。
1970年
今世紀最悪の災害に
東パキスタン(現バングラデシュ)のガンジス州河口一帯を猛烈なサイクロンが襲った。沿岸の都市
チッタゴンなどを中心に死者・行方不明者は合わせて30万〜50万人にも上り、今世紀最悪の災害と
なった。この地域は過去10年で5回も大竜巻に襲われていた。
1967年(昭和42年)
米兵4人が脱走
「ベトナムに平和を!市民連合」が会見で、横須賀入港中の米空母「イントレピッド」から航空兵4人が
脱走したと発表した。空母は北ベトナム爆撃に参加した直後で、4人は戦争反対の立場から脱走。
その後、ベ平連の協力でスウェーデンに入国した。
1981年
気球で太平洋横断
ロッキー青木ら日米の4人を乗せ三重県の長島温泉を離陸したヘリウムガス気球「ダブルイーグルX号」
がサンフランシスコ北方の丘陵地帯に着陸、太平洋初横断に成功した。
84時間31分の飛行で、飛んだ距離も9600キロを超え、ガス気球としては世界記録。
1972年(昭和47年)
電話が時分制に
電話料金の「広域時分制」への切り替えが全国で順次始まる。それまで市内通話は度数制で、
何時間電話しても1回の料金は7円だったが、時分制では3分ごとに7円を加算。
情報化時代が叫ばれ始め、電話回線を使ったデータ通信の普及に対応した切り替え。
1964年(昭和39年)
米原潜が初入港
米国の原子力潜水艦「シードラゴン」(乗組員100人)が乗組員の休養や水補給などのため、長崎県の
佐世保に入港した。日本への初の原潜入港で、革新系団体などが現地で抗議集会を開催。
翌日にはデモ隊と警官隊が衝突した。原潜は14日に出港した。
1903年
ピサロが死去
印象派の旗手とされるフランスの画家カミーユ・ピサロがパリで死去。73歳。1863年、仲間のモネ、
セザンヌらと「落選者展覧会」を開き、印象派のリーダーに。一時、点描画法にひかれた。
代表作に「ポントワーズの庭」「リンゴをひろう女たち」など。
1984年(昭和59年)
シンボリルドルフ3冠
京都競馬場の菊花賞でシンボリルドルフが快勝、皐月(さつき)賞、ダービー制覇に続き8戦全勝で
3冠馬になった。3冠馬はセントライト、シンザン、ミスターシービーに次いで4頭目だが、
無敗で達成したのは史上初。この後、天皇賞、有馬記念なども制す。
1931年(昭和6年)
渋沢栄一が死去
近代実業の開祖、渋沢栄一が東京の自宅で死去。91歳。1867年に幕府のパリ万国博使節団に
加わって渡欧。維新後、大蔵省で貨幣制度、税制などを整備。下野した後はわが国に株式会社組織、
銀行制度を導入した。引退後は教育・社会事業に貢献した。
1918年
第1次大戦が終結
ドイツと連合国が休戦協定に調印し、第1次世界大戦が終わった。皇帝が退位してオランダに亡命し、
軍が共和国樹立を宣言するなど騒然とした情勢にあったドイツ側は、降伏に等しい休戦条件を検討する
時間がないまま協定を受け入れ、戦闘を停止した。
第1次世界大戦終結
ドイツが連合国に降伏、第1次世界大戦が終結した。パリのコンピエーヌの森の駅に到着した列車の
中でドイツ代表のエルツベルガーが休戦協定に調印。14年のサラエボ事件をきっかけに始まった
大戦争は3300億ドルの戦費を費やし900万人以上の人命を失う。
1982年
ブレジネフが急死
ソ連共産党書記長で最高会議幹部会の議長も兼ねるレオニード・ブレジネフが、心臓病のため
急死した。75歳。31年に入党。64年10月のフルシチョフ解任後に党第1書記に就任、対米和解を
中心に緊張緩和外交を推進した。後任書記長にはアンドロポフが選ばれた。
1975年
カレンの尊厳死却下
米ニュージャージー州の高裁は、7カ月間も病床で昏睡状態の娘カレン・クインランに”安らかに死ぬ権利”
を認めてほしいという家族の訴えを却下した。この尊厳死裁判は内外で議論を呼ぶ。
翌年、同最高裁は逆に家族の訴えを認め、人工呼吸器が外される。
1963年(昭和38年)
オートバイ日本GP
三重県の鈴鹿サーキットでオートバイの世界選手権、第1回日本グランプリが行われ日本車が圧勝した。
レースは50tから350tまでの全4種目で、ホンダとスズキが優勝を分け合った。
年度のメーカー得点も両社で3種目を制し、日本車の優秀性をアピール。
1940年(昭和15年)
紀元2600年を祝賀
「日本書紀」に記載された神武天皇即位から2600年に当たるこの年を記念する祝賀式典が、
皇居前広場で盛大に催された。式典には天皇、皇后両陛下、近衛文麿首相のほか、約5万5千人が参列。
祝賀の祭典はこの日から5日間、全国で繰り広げられた。
1989年
ベルリンの壁を開放
東ドイツ政府が、国外旅行と移住規制の撤廃を発表した。28年前に築かれ、東西対立の象徴として
ドイツ民族を分断していた「ベルリンの壁」は事実上消滅。数万人の東側市民が西ベルリンに渡り、
壁の周辺では東西の市民が抱き合い、シャンパンがはじけた。
1970年
ドゴールが急死
フランス第5共和制の初代大統領シャルル・ドゴールが心臓発作のため、自宅で急死した。79歳。
12年に陸軍士官学校を卒業後、第1次大戦に参加。第2次大戦では自由フランス運動を組織して
「国家の救済者」に。58年に大統領に選出され独自外交を推進した。
1963年(昭和38年)
炭鉱爆発で458人死亡
福岡県大牟田市の三井三池鉱業所三川鉱の坑内で炭塵の大爆発が起き、458人が死亡、555人が
重軽傷を負う惨事となった。会社は約3千人を動員して救援活動に当たらせたが、爆発後に発生した
一酸化炭素などの有毒ガスが坑内に充満、作業は難航した。
1962年(昭和37年)
LT貿易調印
自民党の高碕達之助と中国の廖承志は北京で「日中総合貿易に関する覚書」に調印した。
双方は長期バーター取引を発展させ、年平均取引額を1億80万ドルにするというのが内容。
国交回復前の両国の貴重な窓口となり、2人の頭文字を取ってLT貿易と呼ばれた。
1987年(昭和62年)
岡本綾子が賞金女王に
岡本綾子が米女子プロゴルフツアーの最終戦で2位に入り、この年の獲得賞金総額を46万6034ドル
とし、米国人以外では初めての賞金女王に輝いた。米ツアー挑戦7年目の快挙。
1972年
デンバーが五輪返上
米コロラド州デンバー市が住民投票の結果、大差で76年冬季オリンピック大会の返上を決定した。
2年前の開催決定直後から、環境保護か観光客誘致かで地元は真っ二つ。反対派が署名を集め
投票に持ち込んだ。地元住民の反対で返上したのは五輪史上初めて。
1965年(昭和40年)
11PMがスタート
日本テレビ系で「11PM」がスタートした。月曜から金曜まで毎夜11時から始まるワイドショー。
小島正雄、大橋巨泉、藤本義一、安藤孝子らがレギュラー出演。当時流行の男性路線を狙ったつくりで、
お色気を交え、ニュースや映画案内などの情報も取り入れた。
1965年
英で死刑廃止法を施行
英国で、死刑廃止法が施行された。かつては極刑の国として知られ、19世紀初頭には220種もの罪に
絞首刑が適用されていた。しかし、議会は誤審による死刑の危険性があるなどの理由で、反逆罪など
一部の犯罪を除き、絞首刑廃止を承認していた。
11月7日
1989年
NY初の黒人市長
米国最大の都市ニューヨークの市長選で、黒人のデービッド・ディンキンズが
元検事のルドルフ・ジュリアーニを破り当選した。ジュリアーニは「犯罪の撲滅」を訴えたが、
ディンキンズは黒人やマイノリティーの支持を集めた。同市の黒人市長誕生は初めて。
1980年(昭和55年)
越路吹雪が死去
歌手の越路吹雪が胃がんのため、都内の病院で死去。56歳。37年に宝塚音楽歌劇学校に入学し
2年後に「花物語」でデビュー。56年の帝劇ミュージカル「モルガンお雪」のヒットを機に退団し、
ミュージカルで活躍する傍ら、華麗なシャンソンでファンを魅了した。
1944年(昭和19年)
ゾルゲらを処刑
国際スパイ事件で、ドイツの新聞社東京特派員リヒャルト・ゾルゲと評論家、尾崎秀実が処刑された。
ゾルゲはナチス党員を擬装、日本の機密情報をソ連に打電。
「独ソ戦」「日本南進」など情報は正確を極めた。尾崎は近衛文麿首相のブレーンでゾルゲの協力者。
1944年
ルーズベルトが4選
米大統領選挙で、民主党現職のフランクリン・ルーズベルトが史上初の4選を果たした。
29年にニューヨーク州知事に当選。革新的州政で注目され、32年に第32代大統領に当選した。
11月6日
1989年
APEC始まる
オーストラリアのキャンベラで第1回アジア太平洋経済協力会議(APEC)が始まる。
環太平洋諸国による初の政府レベル会合で、このときは日本、米国、インドネシアなど12カ国の外相、
経済担当相が地域経済協力の方向を討議。現在参加国は21カ国・地域。
1973年(昭和48年)
銀座のネオン消える
石油ショックによる節電で、東京・銀座の目抜き通りを彩るネオンサインが消えた。
松下電器や日立など大手電機各社が広告ネオンの節電に協力。ソニービルや三愛ビルといった
馴染みのネオンも灯を落とし、銀ブラ族は「銀座が少し暗くなった」と物足りなげ。
1947年(昭和22年)
雑誌社主催で集団見合い
結婚雑誌「希望」の発行元が、愛読者のための集団見合い大会を多摩川畔で開催した。太平洋戦争の
ため、婚期を逸した20〜50歳の男女386人が参加。参加者は2対1の割合で男性が多かったが、
相当数のカップルが成立。その後、各地で同種の催しが流行した。
1937年
日独伊防共協定に調印
日本、ドイツが前年11月に調印した日独防共協定にイタリアが参加することが決まり、その調印式が
ローマで行われた。33年に国際連盟を脱退して国際的孤立を深める日独と、エチオピアに侵攻した
イタリアは、40年の三国同盟でさらに軍事的結びつきを強めた。
1989年
ホロビッツ死去
ウラジーミル・ホロビッツが米ニューヨークの自宅で死去した。85歳。しばしば演奏活動を休止して
「幻のピアニスト」と呼ばれ、コンサートそのものがニュースになった。来日は2度。
ショパンなど19世紀ロマン派の香りを現代に伝える最後の巨匠ピアニスト。
1972年(昭和47年)
パンダを初公開
日中国交回復を記念し、中国から贈られたジャイアントパンダのカンカン、ランランが、東京・上野動物園
で初めて一般公開された。初日の入園者約5万6千人のうち、平均1時間半の待ち時間をかけてパンダ舎
前を通れたのは3分の1以下の1万8千人だった。
1969年(昭和44年)
大菩薩峠の赤軍逮捕
警視庁と山梨県警は山梨県・大菩薩峠の山荘「福ちゃん荘」で武闘合宿をしていた赤軍派の53人を
凶器準備集合罪の現行犯で逮捕した。70年安保改定を控え、佐藤栄作首相訪米阻止のため武装蜂起を
計画。逮捕者の3割は高校生、女子学生も2人含まれていた。
1922年
ツタンカーメンの墓を発見
古代エジプトの第18王朝のファラオ、ツタンカーメンの墓が、英考古学者カーターにより発見された。
ナイル川西岸の古代都市テーベに近い「王家の谷」にあった墓からは金のマスクをした王のミイラ、
黄金製のひつぎ、王座や無数の財宝が見つかった。
11月4日
1985年(昭和60年)
法隆寺が”飛鳥”の姿
奈良県斑鳩町の法隆寺で、半世紀にわたる昭和大修理の完成を祝う法要が営まれた。
金堂や五重塔、夢殿などには色鮮やかな幡(ばん)が飾られ、飛鳥時代を再現。
大修理は、明治の廃仏棄釈で荒れた伽藍(がらん)を修復するため、昭和9年にスタートした。
1947年
「欲望という名の電車」初演
テネシー・ウィリアムズの「欲望という名の電車」がニューヨークで初演される。
南部の没落階級の女性と、新しく台頭する労働者階級の野性的な男性との対立を描いたドラマで、
ピュリツァー賞受賞。マーロン・ブランドはこの作品をきっかけにスターになった。
1939年(昭和14年)
日米東京会議始まる
日米通商航海条約の失効を控え、危機的状況にある両国関係の打開を目指す野村吉三郎外相と
グルー米大使の東京会議が始まった。12月まで行われた会議は物別れに終わり、翌年1月26日に条約が
失効。日米は無条約状態に陥り、米国の対日禁輸が可能となった。
1918年
ドイツで水兵が反乱
ドイツ北部の軍港キールで、出港命令を拒否していたドイツ艦隊の水兵が武装決起し、兵士評議会を
結成して全艦隊を掌握した。海軍の崩壊がドイツ革命の発端となり、9日には首都ベルリンで民衆が
国会や宮殿を包囲。皇帝ウィルヘルム2世を退位に追い込んだ。
11月3日
1958年
ユネスコ本部庁舎が完成
パリに建築中だった国際教育科学文化機関(ユネスコ)本部庁舎が落成した。上から見るとY字形の
建物を設計したのは、米国などの3建築家。ピカソ、ミロなどの巨匠が内装に腕を競ったため、ビル自体の
建築美と相まって現代美術の粋を集めた殿堂となった。
1955年(昭和30年)
ヘルスセンター誕生
千葉県船橋市に大規模娯楽施設「船橋ヘルスセンター」がオープン。施設の中で丸一日楽しめるよう
温泉を中心にプールや遊園地、演芸場などを組み合わせた。高度成長期の日本人には最も手軽な
レジャーとして人気になり、各地にヘルスセンターがつくられる。
1954年(昭和29年)
「ゴジラ」に長蛇の列
東宝が社運をかけた特殊撮影怪獣映画の第1号「ゴジラ」が封切られ、劇場の前に長蛇の列ができる
人気を呼んだ。邦画界に「特撮映画」という新しいジャンルを切り開いたゴジラは、シリーズ化されて海外でも
評判となり、日本の怪獣映画の代名詞となった。
1949年
湯川秀樹にノーベル賞
ノーベル物理学賞が湯川秀樹博士に決まった。日本人初の受賞。湯川は35年発表の論文
「素粒子の相互作用」で原子核内に未知の新粒子(中間子)が存在することを予言。この「中間子論」が
評価を受ける。「受賞が日本人を元気づけることになれば」とコメント。
1985年(昭和60年)
阪神初の日本一
プロ野球日本シリーズで阪神が西武を4勝2敗で下し、初の日本一になった。
シーズン中から阪神フィーバーで盛り上がり、野球に無縁の人も巻き込んだ社会現象になる。
「出来は悪いが、かわいい子」が「王者」に・・・ はファンの気持ち。
1983年
米の学生ハッカーを逮捕
米カリフォルニア大学の19歳の学生がコンピューター・ソフトウエアを盗んだとして逮捕された。
学生は米国で社会問題化しつつあったハッカーの一人。パソコンを使い、米国防総省のコンピューター
ネットワークに侵入、同省と関連機関の情報を盗み出していた。
1979年
メスリーヌを射殺
フランスの犯罪王ジャック・メスリーヌがついに射殺された。前年5月、パリのサンテ刑務所を脱獄して
銀行やカジノを襲い、警察の追及をあざ笑うように逃げ回っていた。国民の間には「現代のロビンフッド」と
いう評判も。当局は「公敵ナンバーワン」として、車ごとハチの巣に。
1942年(昭和17年)
北原白秋が死去
詩人の北原白秋が東京の自宅で死去。57歳。短歌誌「多磨」を主宰し、印象的手法の作品を発表した。
代表的詩集に「邪宗門」「思ひ出」、歌集に「桐の花」など。多くの童謡も作り、童謡集「トンボの眼玉」を
発表する一方、伝承童謡の収集にも力を尽くした。
11月1日
1965年
チタ2世号が太平洋往復
「チタ2世号」がヨットによる初の太平洋往復横断に成功、513日ぶりに母港・名古屋港に戻ってきた。
クルーは、吉田弘明艦長、曽我二郎、戸塚宏の3人。「米国では日系の人たちが親切にしてくれ
何不自由なく過ごせた。横断は思ったほど困難ではない」。
1952年
米が初の水爆実験
米国が、マーシャル諸島のエニウェトク環礁で世界で初めての水爆実験を成功させた。トルーマン大統領
が決定した核実験計画「アイビー作戦」の1回目。「マイク」と命名された爆弾は重量65トン。
広島に投下された原爆の550倍の爆発力を持っていた。
1947年(昭和22年)
「二十の扉」スタート
「それは動物ですか、植物ですか、鉱物ですか?」。NHKラジオのクイズ番組「二十の扉」の放送が
始まった。米国のクイズ番組をまねたもので、出題は聴取者から募集。
塙長一郎、大下宇陀児、柴田早苗らをレギュラー解答者に起用し、人気番組になった。
1902年(明治35年)
初の「回遊列車」登場
連休中に京都の紅葉見物を楽しんでもらおうと、官営鉄道が初めて「京都回遊臨時列車」を運転した。
新橋〜京都間の3泊4日の旅のうち、車中泊が2回。食堂車も含めた8両編成の列車は2等に割引運賃が
適用されたことで人気を呼び、180人が参加した。