田野畑高校 TBS 放送委員会 1994(平成6)年度

『槙木沢橋〜思案坂を越える〜』
第41回NHK杯全国高校放送コンテスト テレビ番組自由部門 全国大会参加
『田野畑高ニュース』
第6回高校CMコンテスト 佳作(第4位)
『50円の田野畑村』
千代田杯第32回全国高等学校放送コンクール テレビ制作CM部門 全国大会入選

『菅窪鹿踊・剣舞〜田野畑高の挑戦〜』

千代田杯第32回全国高等学校放送コンクール テレビ制作ドラマ・ドキュメント部門 全国大会入選

1993年の放送コンクールに初挑戦した私たちが全国4位に入賞したことは、 田野畑高校全体の活性化のきっかけとなった。さっそく生徒会では 「田野畑高校を有名にする」という活動目標を掲げ、多彩な活動ができるように 生徒会組織の大幅な見直しを行った。それまで田野畑高校には、硬式野球など 6つの部と、いくつかの委員会が存在するだけだったが、文化活動を 主として委員会組織で行うことにし、「掛け持ち」を委員会では 無制限に認めることにした。また新たな委員会の設置や、 百人一首かるた大会への臨時編成メンバーでの参加など、 これまでになかった活動を始めていった。

さて、このとき「踊組」という委員会が設置された。これは、田野畑村に伝わる 「菅窪鹿踊・剣舞」の伝承を行う組織である。田野畑高校では 以前から田野畑地区の生徒を中心に、文化祭などでこの郷土芸能の発表を行っていたが 県高等学校総合文化祭郷土芸能発表大会(以後「県大会」)に参加して 「田野畑高校を有名に」しようと、本格的な取り組みを始めたのである。 放送委員会でも、踊組の活動を追いかけて番組を制作し、放送コンクール ドラマ・ドキュメント部門へ参加することを、平成6年度の活動の中心に据えた。

踊組の練習は、部活動の終わった夜の7時から9時まで、地元保存会の方々に指導を お願いして行われる。私たちも踊組に密着し、約4ヶ月間にわたる取材を行った。

県大会が近づいてきた頃、リハーサルを兼ねて、沿岸地区の郷土芸能発表会に 踊組が参加することになった。この年初めての外部での発表だったが、私はこの日も 客席からいつものようにカメラを回していた。田野畑高校の発表が始まった。 一番手の雌鹿が舞い始める。ところが彼の衣装が乱れ、踊ることができなくなって しまった。それでも笛と太鼓は続く。彼は何とか戻ってきて踊り続けたが、次は 別の踊り手のカシラの角が落ちてしまった。私も撮影をしながら、 焦りと不安で一杯になってしまった。

演技が終わって、控え室に入る。落ち込んだ踊組を撮影する自分。

翌日、学校で踊組のミーティング。野球部のエースで放送委員でもある踊組の代表。 「チームワークを意識して、県大会で取り返そう。」

四日後、盛岡で県大会が行われた。田野畑高校踊組は、最優秀賞を受賞し、翌年 (平成7年) 8月に新潟県で行われる 全国高等学校総合文化祭への代表に選ばれた。

撮影を終えた私たちは、編集に取りかかった。踊組の県大会から放送コンクールの 作品提出締め切りまで日数がなく、全員でほとんど徹夜の数日間となった。残る作業は ナレーション録りと絵の編集である。原稿を作り、学校が静かになる深夜に録音。 編集担当がそのあと学校で機材を操作し、私は70枚の提出用台本を完成させる。 こうして何とか締め切りに間に合わせ、放送コンクールへ臨んだ。

放送コンクール県大会。ドラマドキュメント部門第1位、岩泉高校田野畑校 『菅窪鹿踊・剣舞〜田野畑高の挑戦〜』。そして、全国高等学校総合文化祭に 私たち放送委員会も参加することになった。

(1994/1995年度放送委員長 えりこ)


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