同じく48年の写真、船を操作しているのは塚沢絹江さん。(同上)
昭和51年8月に花巻大橋が竣工した、渡し舟は51年の10月13日
迄は運行していたと思われる。

昭和48年の庫裡の渡し舟(宮野目振興センターに掲示されている)

市内葛の阿部家の近くに繋留されていたらしい

A 岩手県管轄地誌及び地図からさがした渡し

岩手県管轄地誌(明治9年頃)に記載されている花巻地内の
渡しに関する記事の一覧はこちらからごらんください。

11 桜(外台)ノ渡し

10高木(下川原)渡し

9 槻木渡し

8 庫裡(矢沢)渡し

7 東野袋ノ渡し

6 葛ノ渡し

5 関口ノ渡

赤川、井戸向の渡し:大正2年測図、大正4年印刷・国土省所蔵旧版地図・花巻
大迫等に通ずる渡船場であり、同地域住民によって運営された。井戸向は近世代以来の渡し。昭和35年井戸向橋架設により廃止(「北上川第6輯」284頁)

 3 赤川渡し 及び井戸向渡し

2 石鳥谷ノ渡し

1 境ノ渡し(上の渡し)


岩手県管轄地誌第三号(明治14年度完了)によると、当時、槻木渡し(対岸の上似内村では
「最寄渡し」といっている)という渡しがあったようだ。8 庫裡(矢沢)渡しと 10 高木(下川原)
渡しの間に所在したようだ。大正2年測図には記載されていないのは、岩手軽便鉄道が大正2年
に開通し、似内と矢沢に停留所ができたのでもろに競合する槻木の渡しが、その前後に廃止に
なったのだろう。



付言:「北上川 第六輯」という素晴らしい資料があることについては、花巻市文化課渡辺氏からご教示いただきました。感謝いたします。


舟は長根
側に繋留

舟は添市側
に繋留

舟は葛側に繋留

地図で見ると舟は通常新堀側に繋留されている

 高木(下川原)渡
1 高木村住民等によって運営された。創始は近世代初期に遡る。近世中期には維持管理は南部藩   によって定められた。高木村等14ヶ村で舟の建造、渡し守の給米を負担した。渡守の給米高は一  人当たり18駄片馬余。舟は200人乗が二艘、12人乗が壱艘(文化7年)
  厳寒の時は徒歩で渡る事もあった。
  享和2年(1802年)8月舟が転覆し人が6、7人死に、馬も8匹死んだ。
  明治になり、私渡として運営されたが、運賃は人五厘、馬壱銭。
  明治37年朝日橋の架設、開通にともない終了した。(「北上川 第六輯」276〜281頁)
2 上に示した古地図(県立図書館所蔵:花巻城之図;江戸後期)では「古船渡八幡」が現在の小舟渡  の八幡らしい(但しスペースの関係でここにはその箇所を表示していません。)。古舟渡は「高木の   渡し」の前の「渡し」という意味か。
3 貞享3年(1686年)北上川新川の開設によって高木船渡場は新設されたとのこと。 (「高木村の  歴史」 佐藤昭孝 151頁)
4 前掲「高木村の歴史」によれば、高木渡船場とは別に下川原舟渡場があったようだ。明治20年に  佐藤鶴蔵が警察に「高木村下川原」において舟渡場を営業願をだしているそうだ。(215頁)昭和初期に廃業とのこと。

対岸どうしの関口と黒沼は
南部家の重臣
北家の領地だった。舟は関口側に繋留

情報のある方はメール下さい。こちらからどうぞ

2-3 北上川の渡し(花巻地内)

花巻地内の北上川にあったと思われる渡しは11箇所(明治から
大正にかけて)である。下に、該当箇所の一覧添えた。はっきり
「渡し」と書いてあるものや、符号(舟マーク)だけのものもある。ただし、石鳥谷,
槻木、高木については、地図測図の時点で廃止になった。

昭和51年頃迄運行していた。(51年に近くに花巻大橋が架設。)

大正元年に大正橋が開通し、渡しは廃止。.. 明治26年に東北本線の石鳥谷駅が開業した。
それに伴い、石鳥谷の渡しの利用者が大幅に増えたらしく、そのため、橋の架設が比較的早く大正元年になされた。

大正元年に、少し下流に大正橋が開通したことに伴い、間も無く渡しは廃止。

上の表を略図化したもの左に示す。大正2年に既に橋が出来た箇所は赤で橋を示す

 境の渡しで嘉永年間に100人乗りの大渡し舟を造り替えた記録があるそうだ。(「北上川第六輯」東北地建発行(287頁)及び、「郷土の栞」復刻版 新堀史学研究機関誌(109頁)
北上市図書館で和賀川の100人乗り渡し船の絵図面(後世の写し)、
があったので、
参考として下にしめす。 舟の長さ約13メートル位、最大幅2.4メートル位と思われる。

井戸向橋の袂に橋の碑文があった。下に添えたが、その一部を抜き出す。

  井戸向橋の由来について

ここ井戸向はもと渡船場であった、その歴史は今これを明らかになし得ないほどに長くひさしい 
            (中略)
 東北有数の潜り橋が架けられ昭和34年12月渡り初めを行ったのである。
            (中略)
 昭和46年2月遂にこの大橋の完成をみたのである。
           (以下略)


          (潜り橋は現在の橋の50メートル程上流)

宮沢賢治が大迫に行くときに「葛の渡し」に乗った。そのことを父の宮沢政次郎宛
てのはがきに記しているので、ここに紹介する。
    大正7年5月19日 夕
                      宮沢 政次郎様
  本日は葛の渡しを経、八重畑役場にて案内を得て権現堂山を超えその東の廻館山を廻りて亀ケ森村八幡館に出で候処、まだ午後二時にて更に大迫に参り当地に泊致べく候
                    (以下 略)

昭和8年に関口の渡しと葛の渡しの間に「八重畑橋」が、架設された。その時点で、両方の渡しが、廃止された。ただし、この八重畑橋は「明治橋」の古材を利用した橋で、その後、たびたびの洪水で、流出し、渡し舟が復活したりしたが、昭和24年東雲橋として近代的な橋が架設され、渡しが、廃止となった。しかし昭和34年9月の15号台風で橋が流され、渡し船が復活した時期もある。最終的に現在の東雲橋 1982 ・昭和57年)が、開通し渡しは廃止となった。(「石鳥谷町史」下巻(677頁)によると、昭和39年に橋が完成するまで
続いた、との事。 佐藤善六さんという方が中心になって運営したらしい)

この渡しは、花巻以南の者が早池峰に行くときのメインルートだったので、時期的にもかなり古くから存在した渡しと思われる。ちなみに早池峰神社の神田(こうでん)もこの渡しの南2キロ位(宮野目村)のところに有った。

今では珍しい潜り橋だが、当時は、先端の交通施設であったか?

「花巻・北上・遠野・西和賀の今昔  保存版」から、井戸向の潜り橋を下に示す

この渡しについての資料が少ないので詳細が不明。明治末年頃の創設らしいが、終戦前には廃止になったらしい。

嘉永6年の村絵図にも記載されているのでかなり古い渡しと思われる。矢沢から、台温泉や宮野目、奥州街道を目指し人々が利用したらしい。
 知人に伺ったが、子供の頃、自宅(矢沢)から、宮野目の骨接ぎに治療に行くときに、渡し船に乗ったそうだ。船は、宮野目側に係船しているので、矢沢の方から「ホーイ」と舟を呼んだそうだ。

昭和51年秋に渡しが廃止する頃のイベントとしての写真。上記の塚沢さんが馬に乗った所を写してもらったそうだ。

明治初期の村絵図を示す。

少し脇道にそれるが、当時の軽便鉄道の路線図(該当部分)及び北上川を渡る軽便鉄道の雄姿を下に添える

明治37年に架設された朝日橋(船橋)の映像を下に示す。両岸に鉄さくで緊縛したものだそうだ     (「写真集 明治大正昭和  花巻」より 

桜の渡しについて  石崎 直治氏が「東十二丁目村誌」に書いているので、それを下に
引用します。
  私達の小さい頃、長根に舟場があった。花巻に行く時、朝日橋を渡るか、舟場から桜に舟で渡るかどちらかによった。長根の南にある排水路の石橋の所から西に入って行くとやがて北上川の落口があってそこに小さな小屋があり、毎日交代で舟渡人が居って、料金を出して西十二丁目に渡してもらったものである。     (ちなみに、氏は明治45年生まれの方である。)

この渡しは、昭和7年の「花巻町全図」に大正2年の地形図と同じ場所に、舟の表示が載っているのでそのころまで存在したと思われる。「矢沢郷土誌」53頁によると、昭和18年に廃止と之事。

ワイヤのロープは安全の為昭和40年に設置されたそうだ。ワイヤに引っ掛けて舟を運行したとのこと