10 「小岩井農場」の「章題」について
   

以下の小文は宮澤賢治学会イーハトーブセンター会報第47号(平成25年9月30日発行)に掲載して頂いた物です。但し、二郡見聞私記の頁番号を便利のため付け加えております。

宮沢賢治の生前に刊行された唯一の詩集「春と修羅」に所収されている長詩「小岩井農場」は6つの章題と括弧書の「章題」らしきものでありながら、その内容が全く書かれていない一行の部分とからなっています。6つの章題は「パート一」「パート二」「パート三」と「パート四」まで連続し、その次に、章題らしいものが、括弧にまとめられ(パート五 パート六)とわずか一行だけです。引き続いて、「パート七」と「パート九」となります。

なぜ、このような表現を採ったのか、誰でもが思っている疑問でしょう、しかし誰もがその理由にたいし、解答を見出せない事も事実であります。

平成18年12月に風のセミナーで原子朗氏の「小岩井農場」の講義を受けて以来

私にとっても気になっていた問題でした。

 その後、かなり時間が経過しましたが、ようやく、自分なりに、整理がついてきたような気がするので、皆さんのご意見を伺いたく、この場に、ご報告いたします。

 

1 (パート五 パート六)

境忠一 は「パート五、六は同僚堀籠文之進への私的な思いやりが描かれているためもあってか、初版「春と修羅」から除かれ」た(「評伝宮沢賢治」 第四章 詩歌  四 「真空溶媒」より「東岩手山」まで 162頁)と、解しています。 

以後、その解釈が定着しているようです。

その後、しばらくして、頓野綾子が 「にもかかわらず、「パート五」「パート六」を表題のみ残して削除するという、読者の混乱をあえて招くような形式をとったのはなぜか。表題を残し、「パート五」「パート六」と呼ばれる箇所で何らかの 思考があった、ということを明記したのは「心象スケッチ」という記述ゆえ、とも考えられる。」(「小岩井農場」  国文学解釈と鑑賞 2000年2月号所収122頁)

と、考察し、単に「除かれ」た、というだけの見方から一歩進んで、「表題を残し」たことは「何らかの 思考があった、ということを明記した・・」と、章題を残した理由についての考察に一歩踏み込んでいます。

(「パート四」等を表現する用語として「章題」と「表題」と、各著者により異なった二つの用語が使われていますが、原則として自分は「章題」と表現します。ただし、原著者が「表題」と表現した場合、その文の引用の際は、そのまま「表題」とします。以下、この文では同じ)

 

2 「パート七」と「パート九」のはざま

天沢退二郎は「パート七」と「パート九」のはざまに一つの章題があったと推測し、「原稿もメモも残っていないパート八の内容はぼくらの推測外にある。しかし宮沢賢治がその方法の先天的欠陥のゆえに、異空間――いまさっきその辺境へたどりついた異次空間――へそれ以上踏みこむことができなかったこと、おそらくその失敗がパート八を削除させた原因であることはおよそ推測できる。」( 「春と修羅」研究U 所収 「小岩井から・・・小岩井へ・・」69頁「決算表の彼方」)

として、「パート八」が存在したことを推測(=削除された)しています。

一方、岡沢敏男は 「しかし、(パート八)にあたる下書稿が現存していないことをみれば、(パート八)はなにかの理由で執筆されなかったとみられます。」(「賢治歩行詩考」未知谷 2005年12月 所収「幻の章のパート八」  123頁)

と、書いています。

次に、頓野綾子は前掲論文123頁で 「「パート八」は表題さえ残されなかった。原稿も残されない今、ここに何が書かれようとしたのか、あるいは本当に何も書こうとしなかったのか、定かではない。しかし、「パート七」から「パート九」への飛躍の間に、読者はまたしても詩空間の断絶を味わうだろうことは確かである。・・・ (中略)・・・ 「パート八」の不在は、読者の側から考えれば、現実から幻想への空間の断絶を意味していることになる。」 と、書き、「パート七」と「パート九」のはざま、言い換えれば、「段絶」の事実の意味への問いかけを漠然とではあるが我々に提示しています。

 

3 賢治についての予備的な前提

賢治は多岐に渡る知識を駆使して、詩を作ったことは周知のことです。その知識の中に、彼の育った地域の過去・現在の諸々の事象や思考習慣についても含まれていたことだろうと思われます。中学進学以降、中学や高等農林で学んだ知識は膨大ですが、それ以前に取得された知識・思考習慣等を若い旺盛な記憶力で蓄積していたことも想像にかたくありません。かつて、小生が「よだかの星」の市蔵という名称について「二郡見聞私記」の「市蔵が事」の影響を指摘しましたが(宮沢賢治学会イーハトーブセンター会報第36号所収)、それは、ほんの一つの例に過ぎないでしょう。

 

4 「岩手山」

 前記3 まで、自分なりに、考えを進めてきたとき、彼のもう一つの詩「岩手山」を何気なく読み直しました。「あっ」と、思いました。

 

そらの散乱反射のなかに

古ぼけて黒くゑぐるもの

ひしめく微塵の深みの底に

きたなくしろく澱むもの

 

この詩の素晴らしさは皆さんが認めています。たしかです。(例えば、栗谷川虹「宮澤賢治 異界を見た人」 角川文庫 所収「気圏オペラ(第一部)」 80頁) 

この詩を整理して読むと、最初の2行と後半の2行の視座が、全く異なる事に気がつきます。最初の場は、岩手山の裾、離れてもせいぜい数十キロの地点でしょう。そこから岩手山を仰ぎ見ています。しかし、次の2行のときは、彼は「一瞬にして氷雲の上に飛躍し」(「注文の多い料理店」のチラシ)、はるか高空から、岩手山を見下ろし、そのきたなくしろく澱んだ実景に息を呑んだのです。

このことを、知った時、今までルル探し求めてきた、章題に関する疑問に対する解答にめぐりあった。と、気が付きました。

 

5 「二郡見聞私記」再説

北川宏廸によると、「宮澤賢治という人がわれわれとは根本的に異なる「時間認識」を持っていた」そうです。・・「「空間」と「時間」の狭間にあって、その間を自由に行き来できる世界という・・。」(「賢治の時空認識」(宮澤賢治学会イーハトーブセンター会報第26号 8頁)

ところが、そのような考え方は、実は江戸時代から賢治の時代まで、少なくとも花巻周辺の人々の間にごく一般的にあった考え方です。前述のように、「市蔵」に関する見解を「二郡見聞私記」を根拠に紹介したことがありますが、今回もその「二郡見聞私記」(和田甚五兵衛 「南部叢書」復刻版 第九冊 所収 )を手がかりに話をすすめます。(以下、簡単のために、単に私記と言う。)私記には、合計百拾六(116)の話が収録されています、その内、九話が、主人公の時間・空間の瞬時の移動を重要なテーマもしくはストーリーのポイントとして役割を果たさせています。例えば、私記巻3の「ほやた左平治」(復刻版201頁)では、主人公が、7月に皆と山にしば刈に行きましたが、しかし、帰る時になっても彼だけ集合場所に戻って来ませんでした。その後、10月になり、皆、再び同じ山に行ったら、以前の集合場所だった所に主人公「ほやた」がおりました。彼は、多分、その間、別な時間もしくは空間にいたのでしょう。同じく巻3の「鎧か淵」(同復刻版199頁)では、村の水練の達人が川の底で城を見てきました。別な空間を覗いたのです。巻4の「大迫の稲荷」(同復刻版 224頁)では、足の速い飛脚がいましたが、その男は大迫から日詰まで、瞬時に行って帰ってきたそうです。狐を使っているのではないかと皆が噂した、と、書かれています。彼は瞬時に空間移動が出来たのです。そのような話が、「私記」に九つ語られております。

 

6 結論

そうやくまとめる時が来たようです。

「小岩井農場」は、前項で説明してきたこと、即ち時間と空間を自由に行き来すること(あるいは願望)を、実際に、詩作で、杉浦静の表現を借りれば「視覚的にも表わそうとし」た、詩なのではないでしょうか。(「宮沢賢治 明滅する春と修羅」 1993年1月 蒼丘書林 所収 「小岩井農場の成立」 71頁)

「岩手山」では、内容的には、空間を自由に行き来した結果の詩表現になっていますが、詩が短かすぎて、その事を視覚的に表現するまでに至らなかった、と云うか、視覚的に表現する方策をとりえなかった。「小岩井農場」は、長詩なので、スペース的余裕があり、彼はその瞬時の空間移動を「詩文」の形の上でも表現しようと試みたのではないでしょうか。しかし、今まで、ほとんどの人がその意図を理解できなかった。結果として彼の瞬時の異空間への移動の表現の視覚化の試みが失敗状態であったのかもしれません。ただ、なぞの多い詩という評価を得ただけでした。

 

7 検証

彼は、「パート四」から「パート五」・「パート六」に移るべき瞬間に、実は「一瞬にして氷雲の上に飛躍し」(「注文の多い料理店」のチラシ)もしくは、風の又三郎のように大循環に乗って「パート九」へ、 頓野の言うように空間の断絶を超え、もしくは、天沢のいう異空間へ 到達したのです。ですから、詩文には括弧書で(パート五 パート六)と章題らしいものをおいただけでした。

 

熊谷えり子も「「小岩井農場パート九」における幻想と決意をめぐって」 (でくのぼう

 宮沢賢治の会 第5号 2003年12月)の3頁下段)で

「「パート九」は(中略)、遥かに時空を超えた地点(ところ)です。」

及び同論文10頁下段で

「「パート七」の次に「パート八」は元々書かれていません。「パート八」が元々ないのは、「パート七」が現実に小岩井農場の人々とふれ合っていく内容なので、それに対し「パート九」は断絶するような飛躍があるので、これでいいのだというような気がします。「パート九」は「パート四」と同じ地点に戻ってきているのに、全く異なる異空間へまぎれこんでしまっているのです。」

 

と、云うように、「パート八」などと云うものは、最初から無いのです。異空間もしくは異時間というシチュエーションへの移動を「視覚的にも表わそうとし」た、彼の天才的アイデアは、「パート七」の後に、それと断絶していることが明らかに解る「パート九」を設定したことにあるのです。

 

8 結論再説

再びまとめると、「小岩井農場」は「パート一」から「パート七」まで、賢治は小岩井を歩きながら詩作したのです。岡澤のいう「歩行詩」という表現がそれなりに妥当しているのかもしれません。しかし、(パート五 パート六)の時に、賢治は一挙に別空間に移動したことを視覚的に表現しようとしたのです。そのために、五と六は括弧書にし、章題の抜け殻であることだけを示しました。そして、断絶した場所へ、断絶したことが視覚的にも解る章題「パート九」と表示し、そこに詩作する必要があったのです。

 

(付記、引用著書の著者の敬称は略させていただきました。失礼をお詫びします。)






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