8 北守将軍と三人兄弟の医者―モチーフの幾つかについて          

平成19128,9日開催の賢治学会 冬季セミナーに参加しました。

賢治と建築がテーマでしたが、色々得る物がありました。

その一つが、今回の主題について調べてみようと思ったことです。

そのきっかけは、次の2点によります。第1が天沢代表理事のシンポジウム司会の際のコメントでした。すなわち、北守将軍の訪れた「病院が、崖の上」にあるという賢治の表現と、氏の居住する千葉市の千葉大学医学部がそのような場所に所在していることについてのなにげないお話がありました。私には、その時、花巻の総合花巻病院が、地形的にそれに該当する、と、反射的に感じられました。

第2は、2日目の米地文夫氏の「黒ぶどう」の講演です。精緻な論理で、展開する話を、前日からの思いに何となく重ね合わせながら聞いておりました。そうだ、そのような感じで「北守将軍と三人兄弟の医者」のモチーフを他にも探せないかと。

 そのようなきっかけに基づいて自分なりに得たことを、これから述べます。

  第1 病院について

 先ず、最初は、今回のきっかけになった、病院の所在地です。都ラユーのマクロ的所在地は中国と推定されているようですが(註1)、ここではラユーについての検討ではなく、ミクロ的に考えた、病院の所在地もしくはモチーフの推定です。

 三人の病院は、「町のいちばん南にあたる、黄色な崖のとっぱな」に建っている、と、書かれています。意外な事実ですが、総合花巻病院(旧花巻共立病院)は、旧花巻町の中心部では一番高い場所にあたる所に所在しています。北側、即ち、四日町・一日市町方面から病院を見れば、正に「崖のとっぱな」であり、その地区の住民から見れば「町のいちばん南にあた」ります。また、病院の南側、即ち賢治の生家の豊沢町は「坂のふもと」に当たる場所です。どうも花巻共立病院が、三人の病院についてのモチーフになったような気がします。

 地理的にそうだとして、次に、病院が「三つならべて建」っているという、賢治の一見何気ない設定に関しましても、この仮説はうまく当てはまります。というのは、花巻共立病院(大正12年開設)は、稗貫農学校(花巻農学校の前身・大正10年開校・12年他所に移転)、稗貫郡役所(明治35年建設)と短期間ですが3軒並んで所在していたという事実です。なお、その「短期間」の期間には、最初の稿本が成立したと言われている「大正11年頃」が重なりあっていることも注目されます。(註2)賢治は、花巻共立病院を「普通の人の医者」と言い、隣の稗貫農学校の職員(彼自身を含めて)を「馬や羊の医者」及び「草だの木だのの医者」として見たのではないでしょうか。

 そこの農学校で14ヶ月教えた賢治は、本当に「草や木だのの医者」でした。かつ、そのような人を育てようと一生懸命頑張った人でもありました。

 賢治は、「北守将軍と三人兄弟の医者」の複数の稿本(題名が異なるものも含む)で、医師たちの名前を2種類使用しているので、その各固有名詞の意味づけはそれほどの重要性は無いかもしれませんが、昭和6年に発表された定稿(註3)の医師たちの名前、リンパー、リンプー、リンポーを筆者が聞くと、当時の花巻共立病院の院長佐藤隆房、我々は「リューホー」さんと呼び慣らしている方の「呼び名」と何か類似性が感じられます。ひょっとして、賢治は、自身の主治医でもある氏の名前をこっそり、半分ユーモラスに借用したのかもしれません。

 だとすれば、上記の仮説が益々フィットします。

  第2 北守将軍について

 次に、70歳で故郷に帰ってきた主人公について考えました。中村稔氏はこの童話の魅力を「北守将軍の人格の魅力にあるように思われる。」(註4 )とし、作中の軍歌は唐詩選巻7の詩から依拠していることを大分以前に承知されていた旨、同論文に書いておられます。しかしながら、具体的人物モデルについての発言はされていません。また、他の論文等にも、モデルについての具体的言及がありません。(例えば、註1論文6頁)勿論フィクションですからモデルはあってもなくても構わないわけですが、今回それに近い人、言い換えればモチーフを与えた人とも言うべき人が見つかりました。

実は、花巻の人にとってはあまりにも有名な将軍に北松斎がいます。南部家の重臣として、かつ花巻城代としてなじみが深く、開町の恩人とも言われています。この北松斎が北守将軍のモチーフではないでしょうか。ちなみに、時間的には大分離れていますが、彼の居城、花巻城(の跡)と共立病院の間にはお堀があるだけです。全くの隣同士です。

 この人、北松斎、は南部藩主南部信直の名代として天正15年(1587年、松斎67歳)に加賀に前田利家を訪ね(註5)、同じく天正18年(1590年、同70歳)、秀吉のいわゆる奥州仕置に際しては宇都宮まで行っております。(註5)更に、文禄元年(1592年、同72歳)の秀吉の朝鮮出兵の折にも、九州名護屋まで従っており、故郷に帰ってきた時は「もう七十」以上だったのです。当時としては、かつ、彼の年齢にしては驚くべき行動範囲の広さだったと言えます。しかし、寄る年なみには勝てず、文禄の初めの頃70余歳となり、目もほとんど見えなくなったこともあり、引退を藩主に願い出ました。(註6)ところが、彼はあまりにも藩にとり、重要な人物であったので、彼の願が認められず、慶長1893歳で亡くなるまで仕えたという人物です。彼こそ「愚直ともいうべき誠実な人物」(註4 論文81頁)と思われます。

賢治の物語では、将軍は引退を認められましたが、その点に関してはストーリーが異なっています。

 以上、残念ながら、モデルと言い切るほどのデータもそろっていないので、あえて、賢治の作品のモチーフと言う程度の紹介です。今後何かの参考になるかと思い報告させていただきました。

註1 村上衛「北守」と「ラユー」(十代 第26巻6号 256号 2006年12月) 6頁

註2 植田信子 「「北守将軍と三人兄弟の医者」改稿考―将軍像を中心に」(名古屋女子大紀要、第46号 20003月)330

註3 西田直敏「北守将軍と三人兄弟の医者」の一考察(四次元 第十巻 第四号 昭和33年4月)13

註4 中村稔「北守将軍と三人兄弟の医者」 (ユリイカ 1994年4月)80頁

註5 「北左衛門信愛之覚書き」(南部叢書第二 「聞老遺事」所収)

註6 「北尾張守信愛剃髪之事」(南部叢書第三「祐清私記」所収)

 (この文は宮沢賢治学会イーハトーブセンター 会報 第37号に掲載していただいたものです) 


(追加)

 平成23年11月に岩手県立大学の名誉教授米地文夫先生におあいした。
そのとき、先生は、北松斎が北守将軍のモデル(?)という、小生の主張に賛意を表してくれました。
そして、その考えを補強するということで。以下の、説明をしてくださいました。

 北守将軍の帰ってきた首都の名前が「ラユー」です。
 北守将軍が仙人になったと云って、「ス山」のいただきへ小さなお堂をこしらへ(た)

    この 「ラユー」 を2分し   「ラ」  と   「ユー」にします。
    次に「ス山」 も2分し     「ス」 と   「山」にします。

   それから、「ラ」と「ス」 を結びつけると、
           「ラス」 となり、賢治のラス(羅須)地人協会になります
   次いで、「ユー」と「山」 を結びつけると
           「ユー山」となり、北松斎の菩提寺「雄山寺」です。

   と、教えてくれました。ありがとうございました。
       (平成24年12月24日追加)

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