(この文は宮澤賢治学会 イーハトーブセンター 会報 第36号に掲載していただいたものです)

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7 「市蔵」と「とっこべとら子」について

必要があり、「ニ郡見聞私記」という、江戸時代の花巻地方の話を集めたもの(南部叢書第九冊所収)を読んでいたら宮沢賢治の童話に出てくる人名(?)2個に出会った。

一つは、「市蔵」と言う名前だ。承知のように、この名前は「よだかの星」に出てくる名前で、よだかという名を「市蔵」に変えろと鷹に強要された名前である。

 私記の巻二に「市蔵か事」と題されている。話の内容は、宝暦年中に豊沢町の染物屋の使用人に市蔵と言う、70余歳の独身の者がいた。この男は佛神を信仰し、毎年、高山参詣を欠かしたことがない。中にも岩手山、早池峰山、釜石の尾崎には杉を植えたいと思い、毎年春、杉苗を持っていった。宝暦13年のことだが、例年の通り岩手山へ参詣しようとして5月22日出発し、柳沢別当 云々。と言う話である。

 これを見て、アレッと思った。賢治自身の行動に大分ダブルところがあるような気がする。それに、よだかの星に出てくる名前ではないか。と。

話の最後は、13年の参詣の時、財布を盗まれた市蔵が、岩手山の加護により、無事、財布が戻ってきたと言う他愛ない結論であるが。

 既に恩田逸夫が「市蔵という名前」の論考(宮沢賢治論3 童話研究他 所収)において、「市蔵」という名前については、一つの結論を出している。が、しかし、この私記を読んだ今、名前そのものの出所は、この物語の豊沢町の「市蔵」だったのではないだろうか、と思われてきた。念のため、他に「市蔵」という名前に言及した論文等はないかとさがした。遠藤祐が「宮沢賢治のファンタジー空間を歩く」の「よだかの星―ひとすじの物語」、において、恩田の説と多少ニュアンスを変えて、「才覚も技量ももたぬ平凡なつまらぬ男」としての名前ということで、さほど、具体的名称にこだわらない立場で述べていた。

もう一つは、有澤裕紀子が、アルス梅光公開セミナー「宮澤賢治論集」所収の「よだかの星―燃えている星」の中で、「歌舞伎役者を暗示させる名前を意識して使ったのではないだろうか」という主旨を述べていた。市蔵という名前に対する肯定的立場が鮮明であった。

次に、自分に生じた疑問は、何故今まで、「豊沢町の市蔵」という考えが出てこなかったのだろうか、と言うことだった。二郡見聞私記は文政年間に書かれ、花巻地方にはかなり流布したと思われるものだ。現代の活字と言う形で世に出たのは、昭和3年7月に「南部叢書第九冊」という形でである。見方を変えれば、それだけ流布していたから、昭和3年に活字本が出されたとも言える。

鈴木健司「宮澤賢治という現象」第4章 よだかからジョバンニへ(118頁)、によれば、よだかの星は大正10年頃成立(推定)、とのことだ。もし、活字本が世に出る前だとしても、賢治及び周辺の人々が「豊沢町の市蔵」の話を誰も知らなかっただろうか。賢治の父母などは当然知っていた話だったのではないだろうか。

さらに考えると「豊沢町の市蔵」さんが、よだかの星のモデルの一部だったということも可能ではないだろうか。はたまた、更に飛躍すれば、賢治自身が市蔵と改名したかったのか、もしくは、市蔵になりたかったのではないだろうか。少なくとも「市蔵」は賢治にとってプラスイメージの名前だったろう。毎年、岩手山に登り杉苗を植える市蔵の行動に共感を持っていたのだろう。逆に、よだかは新しい名前の良し悪しではなく、改名を強制されるという、基本的権利の蹂躙が耐えがたかったのではなかろうか。等々、想像の種は尽きない。

 二つ目は巻十の最後の「白はた稲荷御託宣」という題名の話に出てくる。稗貫郡八幡村の白幡という地区で、大きな家を取り壊そうとした時、そこの下女が、「狐に付かれ、色々演説し、長崎から始まり、国中の稲荷神社の名を挙げ、後半になり、岩手郡の神社を挙げるときに「岩手郡にほしか稲荷、むかし聞得し馬場松子とつこべ虎子に石合稲荷」と書かれていた。「とつこべ虎子」=「とっこべとら子」である。

 念のために、賢治の「とっこべとら子」の内容に似た話は掲載されていないかと思い、ニ郡見聞私記を再度見直したが、狐に騙された話はいくつもあるが、金貸しの話は出てこなかった。比較的内容が近いのは、お城の御金奉行がお城で当番中、夜中に魔生のものから「金がほしくないか」と言われ、「ほしい」と言ったら、金の紙包みが投げ出された。翌朝になっても、その金は、本物の金だったので、これ幸と家にもって帰った。そして、今迄蓄えてあったものと一緒にまとめようと箪笥を探したが、今迄蓄えてあった金はどこにもなくなっていた。おかしいと思い持ってきた紙包みを良く見たら、それは自分が既に蓄えていたお金だった。という話。(巻七「田頭氏化物に逢事」)ぐらいであった。見聞私記の説話とこの童話とを直接関連づけることは今の段階では、難しいような気もする。

もっとも、多少飛躍して、賢治は狐物語に家の職業(金貸)を取り込むという創作行為を施し、結果として、見聞私記から遠ざかった、のかもしれない。