5 宮澤賢治 納得の読み方
ここには宮澤賢治の作品について自分なりに納得した解釈等を載せる予定です。
目次
宮澤賢治に関するものは下からどうぞ
1 春と修羅の私釈・・・こちらからどうぞ
2 真空溶媒 ・・・・・・・ こちらかどうぞ
3 ヒデリかヒドリかについて・・・こちらからどうぞ
4 ランボーと賢治について(3回賢治国際大会に出席して)
こちらからどうぞ
5 小岩井農場・・・・・・・・こちらからどうぞ
6 よだかの星の「市蔵」について・・こちらからどうぞ
7 「市蔵」と「とっこべとら子」について・・ こちらからどうぞ
8 北守将軍と三人兄弟の医者―モチーフの幾つかについて・・こちらからどうぞ
9 「小岩井農場」の詩句の解釈について
− 鶯とハンス ー こちらからどうぞ
10 「小岩井農場」の「章題」について こちらからどうぞ
11「稗貫のみかも」について こちらからどうぞ
12 詩「高原」について こちらからどうぞ
13 平成30年度の宮沢賢治学会に出席して こちらからどうぞ
1 春と修羅の私釈
宮沢賢治学会に入って4,5年になるがその間、講義を聞いたり小旅行に参加したりした。
16年に「春と修羅」について、原子朗氏の講義を聞いて、なんとなく、感想文を提出した。学会ではそれを宮沢賢治講座「風のセミナー」記録集第5集に掲載してくれた。その原文というわけでもないが、自分のメモリーと言う意味でここに載せた。
一はじめに
「春と修羅」をはじめて読んだのは今から35年ぐらい前だろうか、筑摩書房から賢治全集が発行され、早速取り揃えたときに読んだ。しかし残念ながらよくわからなかった。ただ、何かすごいものだという気がしたこと、と、「詩を読んだ」という実感は残った記憶がある。その後何かの折10年ほど前にも再度読んだが。同じような感じで終わった。
たまたま去年8月の「風の又三郎の謎に迫る」及び9月の「賢治の詩の面白さ」の講義を通じ、少し解りかけたような気がしてきた。再度挑戦ということで今年の8月と9月に継続された両方の講義を受けた後で、なんとなく判ったような気がしたので、レーポートを出してもいいかな、という心境になった結果がこれである。
ここ35年も文字面から理解できなかった詩が、なぜ気にかかり続けてきたか。それはこの詩が文字の意味から鑑賞する客体であるとともに文字の音からも鑑賞できる客体であるという事実にあるのではないだろうか。意味が解らないけれども何かが訴えられ、身に迫ってくる。たぶん私以外の読者でも、文字の意味が十分に理解できなくとも、なんとなくこの詩に惹かれてきたのは、読んだときの語感がとにかくすんなりはいってくる、という事実があるからだろうと思う。賢治にとって糸杉やcypressでは駄目でZEPRESSENと大きな声で発生する必要があったのだろう。これがこの詩の大事なポイントでもあるのだろう。ある意味では音楽的にも訴えてくる詩。意味がわからなくとも口ずさみたくなる詩。それが春と修羅なのだ。いや、元来詩とはそういうものなのだろう。改まって音楽的などということはむしろ自分の無知をさらけ出すことかもしれない。万葉集も短歌も俳句も音唱が前提である。漢詩やソネットは勿論ホーマーの叙事詩もそれが前提だ。竪琴や太鼓、木槌などでリズミカルに、もしくは抑揚を高ぶらせて口唱する。特に、賢治の場合は擬声や方言、外国語など所かまわず顔をだす、いやちがう、その場所にそのような意味と音声をもったものが位置しなければその詩は成り立たないから必然としてその場所にそのような表示を採用する。
風の又三郎の「どっどどどどうど どどうど
どどう」などはその最も典型的な例といえる。永訣の朝の「(あめゆじゃとてちてけんじゃ)」も方言と考え「方言」であることにあまり大きな意味を持たせる必要は無い。そのような音声が詩のリズムに最も適していると思ったからそのような音声の言葉をそこに置いたのだろう。
どうも話がこんがらがってきた。結論を急ごう、賢治は非常に稀有な音に関する鋭い感性の持ち主だったのだろう。詩を書くということはその音声を極限まで美しくするということを前提として苦吟し地の底をはいずりまわったのだろう。だからその成果を我々は今に味わう。ここで極端な仮定が許されるなら、もし彼が40代に生を保ち続けていたならば、音楽家として不世出の作曲家としても我々に記憶された存在になったことだろう。
二 注釈
ここでは、原詩は「 」でくくっております。その部分を注釈したものをその次の行に書いております。そのまま終わりまで進行するというスタイルです。多少読みにくい向きもあるかもしれませんが、まったくの初心者がページを前後しなくともいいようにとの考えでこの体裁をとらしていただきました。
「春と修羅」
「心象のはいいろはがねから」
私の今の心境は灰色な鋼のようだ。重く暗い色に覆われている。その心境で見ると。
「あけびのつるはくもにからまり」
春のいい天気の日アケビは元気に上に伸びている。下から見るとまるでアケビのつるが雲にからまってい るようだ。
「のばらのやぶや腐食の湿地」
周りにはのばらも生えているし地面は腐植土で覆われた地味の豊かな湿地だ。
「いちめんのいちめんの諂曲模様」
あたり一面は花や草でまばゆいばかりの光景だ。
しかし、でも、この光景は灰色鋼のような自分の心境でみると、表面だけの事なのではないだろうか。実態 は上辺だけの取り繕いにまみれているのではないだろうか。
(平成25年10月12日 追加 「正法眼蔵(七)」講談社学術文庫 増谷文雄) の 「八大人覚」の節に、
「少欲之人、則無諂曲以求人意」とある。賢治は、表面的に人にへつらうような、おどろおどろしい光景と 思ったのかもしれない。何かが、足りない)
「(正午の管楽よりもしげく
琥珀のかけらがそそぐとき)」
お昼になればあちこちの鐘や時計やスピーカから一斉に音楽などが鳴り響くように
お日様がふんだんに降り注いでいるこのときに。
「いかりのにがさまた青さ」
自分はこのように表面だけでお追従をいうような環境の中で、本当に腹を立てている、苦いものが腹の中を走っているような気がする。その苦いものはあまりにも苦いので青い色だろう。
「四月の気層のひかりの底を」
澄み切った4月の空気の中で。
「唾し はぎしりゆききする」
私は唾をしはぎしりをしている
「おれはひとりの修羅なのだ」
なぜなら、私は一人前の人間ではなく、それより一段低い「修羅」にすぎない存在だからだ
「(風景はなみだにゆすれ)」
そう思うとあまり悲しくて涙がとまらない、だから、このような美しい時期の風景もなみだのせいで、震えてぼけて見える。
「砕ける眼路をかぎり」
その目で見ると、空一面の雲は砕けているように見える。
「れいろうの天の海には」
美しい空には
「聖玻璃の風が行き交ひ」
教会のステンドグラスのようにうつくしいかぜがそよいでいるはずだ。
「
ZYPRESSEN春のいちれつ」
ZYPRESSEN(糸杉)が新芽を出してきれいに一列に並んでいる。
「 くろぐろとエーテルを吸ひ」
糸杉は元気良く光合成をし成長している。葉の色も良い。
「 その暗い脚並からは」
その糸杉の枝葉の無い幹の下のほうから
「 天山の雪の稜さへひかるのに」
見える遠くの山の雪も光って見えるのに
「 (かげろふの波と白い偏光)」
私の涙のせいで雪もばらばらというか静寂な雪に見えない
「 まことのことばはうしなはれ」
誰も自分には本当のことを言ってくれない
「 雲はちぎれてそらをとぶ」
涙のために空を行く雲はちぎれて見える
「 ああかがやきの四月の底を」
本来は輝き楽しい4月なのに
「 はぎしり燃えてゆききする」
誰も自分には本当のことをいってくれないから、それがくやしいので、歯軋りしながらその辺をうろうろしている
「おれはひとりの修羅なのだ」
そんなんだ、私は普通の人間以下の存在なんだ
「〈玉髄の雲がながれて〉
玉髄のように美しい雲が空をながれている
「どこで啼くその春の鳥)」
どこかで春の鳥が啼いている
「日輪青くかげろへば」
お日様は煌々とかがやいている
「 修羅は樹林に交響し」
でも自分は今どうしようも無い錯乱した状況なので頭ががんがんなりまわりの木々も良く見えない
「 陥りくらむ天の椀から」
空を見ても気を失いそうなぐらいだ
「 黒い木の群落が延び」
周りにはげんきな木がたくさんあるが
「 その枝はかなしくしげり」
しかしその枝は何か少し悲しそうだ、案外私のことを知ってくれているのかもしれない
「 すべて二重の風景を」
ここには通常の人の見る風景と普通の人間以下の私の見る風景と二種類あるが
「 喪神の森の梢から」
普通の人間以下の私が見ている森の梢からは
「 ひらめいてとびたつからす」
からすが飛んでいった
「 (気層いよいよすみわたり)
空気は本当に澄んでいる
「 ひのきもしんと天に立つころ)」
檜はまっすぐに伸びている
「草地の黄金をすぎてくるもの」
今、草原を横切って来る人がいるが、草原はその人のおかげで金を撒いたようにまばゆい。
「ことなくひとのかたちのもの」
ふつうの人間である。でもそのひとは「修羅」などという普通以下の人では決して無い。
「けらをまといおれを見るその農夫」
その人は農夫だ。自分にとっては「農夫」は本当に尊敬すべき存在で私の師父とも言うべき人々だ。その人が、今自分を見ている。
「ほんとうにおれが見えるのか」
たしかに一見、その人は自分を見たようだが、本当に私がみえているのだろうか。諂いの気持ちで、本当は通常の人間以下の存在である私が見えないのに見えている振りをしてくれているだけなのではないだろうか。
「まばゆい気圏の海のそこに」
本当は春爛漫で楽しいはずのこの場所で
「(かなしみは青々ふかく)」
私の気持ちは益々悲しくつらくなっていく
「ZYPRESSENしずかにゆすれ」
糸杉は静かに揺れている
「鳥はまた青ぞらを裁る」
鳥がまた飛んでいった
「(まことのことばはここになく
修羅の涙はつちにふる)」
誰も本当のことは言ってくれないんだ、私は本当に悲しく涙が出てくるだけだ。
「あたらしくそらに息つけば」
空を見てゆっくり呼吸をすると
「ほの白く肺はちぢまり」
冷たい空気が肺に入りひんやりした感じだ
「(このからだそらにみじんにちらばれ)」
私の体は粉々になって散らばってしまったほうがいい
「いてふのこずえまたひかり」
イチョウの枝が光って見える
「ZYPRESSEN いよいよ黒く」
糸杉は不気味に黒く見える
「雲の火ばなは降りそそぐ」
ますます泣けてきて、今では雲は千切れて見えるどころか、目がチカチカして雲ということが識別できないぐらいだ。
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増補行程記(目次)
2 増補行程記(はじめに)
3 増補行程記(リスト1の1)東京都内
4 増補行程記(リスト1の2)埼玉県内
5 増補行程記(リスト1の3)茨城県内
6 増補行程記(リスト1の4)栃木県内
7 増補行程記(リスト1の5)福島県内
8 増補行程記(リスト1の6)宮城県内
9 増補行程記(リスト1の7)岩手県内
10 増補行程記(リスト2)
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