角田先生の想いで   
中塚 明彦

 角田先生が亡くなられてからしばらくたちますが、今でも時々思い出すことや、夢の中に出てくることがあります。先生は、私の医局の一年先輩になりますが、私とは性格が全く反対で、声が大きく、話好きで、行動が大胆で、とにかく目立つ存在でした。共通点があるとすれば、生まれが岩手県北の沿岸の田舎で、盛岡一高を卒業しているということくらいだと思います。大学の同じ医局に在籍していた時代は、時々飲みに行ったりすることはありましたが、それほど親しい訳でもなく、医局の先輩の一人という感じでした。先生とじっくり付き合うようになったのは、先生が、県立宮古病院に科長として赴任する際に、「一緒に行ってくれよ。」と誘いがあって、宮古に行ってからのことになります。それまでは、あまり一生懸命に仕事をするタイプではなく、どちらかというと遊び好きのように思っていたのですが、一緒に仕事をしてみると、それは間違っていることがわかりました。仕事に関しては人一倍頑張ってやっていましたし、強い責任感を持っていました。また、上下に関係なく自分の意見をはっきり話し、その反面、私たち後輩の意見もいろいろ聞いてくれました。人生経験も豊富で、話好きでもあり、いろいろな事を教えてくれたり、困ったことがあると、相談に乗ってアドバイスしてくれました。
 次に、仕事以外の話になりますが、そのパワフルなことには驚かされました。その頃の宮古病院は忙しく、仕事が終わるのもかなり遅くなることが多かったのですが、それから毎日のように飲みに出掛けていました。単身赴任だったということもあると思いますが、これは私には真似のできないところです。そのように大胆な性格であり、かつ、誰とでもすぐ親しくできるような性格でしたので、友達も多くいろいろな人達と付き合いがあったようです。
 そして、ご自分の子供さんに対しては、非常に強い愛情を持っていました。私達も、耳にたこができるくらい、何度も何度も自慢話を聞かされました。先生が、事故で亡くなられた時、数時間前まで一緒に仕事をしていました。その時は、予定があるので翌日に帰ると言っていましたが、おそらく子供さんたちに少しでも早く会いたくなったのでしょう。冬の雪道を、一目散に自分の家族のいる家へ向かう途中、予期せぬ悪夢が襲ってきたのだと思います。その後しばらくの間は、非常に辛い思いで過ごしました。
 先生は、人生の先輩としていろいろなことを私に教えてくれました。私には、思っていてもできないことや、先生のようにしようとしても、真似できないことがあります。先生のようにできたらいいなと思うこともありますが、私も自分なりに頑張っていきたいと思います。
 最後に、角田先生、楽しい思い出をいっぱいいただきありがとうございました。




角田先生との想い出
藤巻 英二

 5年前、角田先生の急逝の報を聞き、彼の太く、残念ながら短くなってしまった人生のうち、一緒に経験した様々な出来事が、文字通り走馬燈のように浮かんできました。
 所属班を決める時、某先生から「角田先生は押手あまたで良いですね。」と言われた事を方々で吹聴したこと。胃腸班への入班試験と称して臨床研修の6年生の接待を任せたところ、期待通り場を盛り上げてくれて合格した?時のこと(見事中塚先生と中野先生の入局をプッシュ)。初めてマンションにおじゃました時、朝美ちゃんが水割りを作ってくれて、つまみにステーキが出てきたこと。スキーに出かけたときに車がウエーデルンしてしまい、対向車の1メートル手前で止まったこと。忘年会の出し物でデーモン小暮に扮して大活躍したこと。賭けと称して一方的に1カ月で10キロ痩せることを宣言し、成功祝いで皆にごちそうし、体重はすぐに戻るも財布が軽くなったこと。研究会で胃のレントゲン診断を当てられ、正解していたのに先輩から読みが甘いと言われ激怒し、皆でなだめたこと。私が結婚する時に夫婦げんかの極意として先にどんどん皿を割ることを教わったこと(もちろん実行したことはありません)。絶縁していたお父さんを山田病院で診療し、親子の絆を回復したこと。大学を離れた後にも、後輩を引き連れて我が家に遊びに来てくれたこと。秋浜先生の結婚式で久しぶりに角田家に泊めて頂いたこと、等々。
 次にお宅に伺ったときは、彼は残念ながら納棺されており、あの大きな声を聞くことはできませんでした。奥さんが「また、やってしまいました。」と言われた時には、涙を抑えるのが精一杯でした。いつも彼の叱り役を引き受けてきましたが、今度ばかりはお礼を言う番です。義理人情に厚く、私の患者さんが急変した時には、いつも係でもないのに率先してカバーをしてくれ、何度助けてもらったか分かりません。患者さん思いの血の通った医師であり、後輩思いの良い指導者でした。生前、「ちっとも、俺を褒めてくれない。」といつも抗議されていましたが、この時ほど褒めておかなかったことを悔やんだことはありません。それでも、もし夢枕に彼が現れたら、「奥さんと子供さんに苦労をかけやがって・・・。」とまた叱ってしまうでしょう。
 カリスマの彼がいないため、昔の仲間で集まることはほとんど無くなりましたが、年に一度「角田先生を偲ぶ会」を彼の命日に近い日程で集まることにしています。結局今でも彼が皆を集めてくれているのです。彼の尽きない逸話を肴にしてお酒を酌み交わすのですが、天国で笑って許してくれていると思います。いや、寂しがりやの彼のことですから、「俺を仲間はずれにして。」と怒っているかもしれません。





角田君の想い出
関野 亙

 角田君の突然の訃報を知ったのは、当時沼宮内病院に勤務しており、当直明け医局で朝食を食べていた時、科長だった渡辺恒雄君からの電話でした。嘘だろうと思いながら、すぐにテレビをつけたら、ちょうどNHKのニュースで角田君の事故を報じており、事実を認めざるをえませんでした。自宅へ帰る車を運転しながら、なんで角田なんだ、自分が死ぬなら解るけれど、なんで自分より先に死んでしまったんだ、とそればかり考えていました。同期で一番最初にあの世にいってもおかしくないのは、自分だと思っていたからです。というのは、平成7年持病が原因で、生死の境をさまよったすえ、長期の入院をしたからです。その際、病室に毎日のように来てくれたのが、角田君でした。隠し事をせず、なんでも話す人でしたので、医局のこと、自分のこと、家族のこと、いろいろな話をしてくれました。当時自暴自棄になっていた自分がいかに励まされたことか、言葉では言い表せないくらい感謝しています。ある日いつものように病室に来てくれた彼が「元気になったら、俺の家の庭でバーベキューパーティーをやろうな。だから早く良くなれよ。あ、でもビールも肉もだめか。だったらおまえだけ特別に、エレンタールをジョッキで腹いっぱい飲ませてやるから。」と冗談を言って帰っていきました。結局バーベキューパーティーは実現しませんでしたが、こんな些細なことでも、当時はすごく励みになったものです。角田君の逸話はたくさんあり語りつくせませんが、入院中、出張日以外ほとんど毎日見舞いに来てくれたことが、自分にとっては一番の思い出と言うか、感謝と言うか、一生忘れることはないでしょう。現在でも同期の中で、最初に角田君のところに行く可能性があるのは自分のようですが(しばらくは行けませんが)、その時は実現できなかった、バーベキューパーティーをして、おもいっきり飲み食いをしたいと思っています。




角田先生を偲んで
千葉 俊美

 「俊美、聞いたか?」この電話で、冬のRochesterの朝、目が覚めました。秋浜先生が訃報を知らせてくれたのです。1日遅れでしたが、当地の時間を考えて連絡を頂きました。本当のことか信じられませんでした。
 角田先生はあまりにも濃縮された生活であったのではないでしょうか。その晩、何もいわない角田先生がニコニコして夢に出てきてくれました。内容は覚えていませんが、その表情は今も覚えています。渡米6ヵ月後の苦しい時期であり、励まされた気分でした。私の心の中では、人生経験豊富な頼れる兄で、高校の先輩でもあり、共通の考えはあったと思っています。学会で、先生が大学の同級生と会ったとき、お前なんでここにいるんだ?と言われていました。よほど楽しい学生生活であったに違いありません。
 角田先生との出会いは、私がまだポリクリの学生であったとき、打ち上げの会の席で歌っていた姿です。一度お会いすると忘れることが出来ない魅力を持ち合わせており、一内に入局するきっかけになったことも事実あります。入局後も、重症室で今回の原稿依頼を頂いた藤巻先生と一緒に仕事をしたことも印象的です。研究室も同じに過ごし、独身であった我々をよく連れ出してくれては、話題提供をしてくれました。仕事の話は飲み会のときはあまりなかったと記憶しています。本当に楽しいひとときでした。思い返すと、声がまだ聞こえてきます。自分が苦しんでいるときや壁にぶちあたったときなど、こういう時はなんて言ってくれるだろうか、と思うことがあります。私はいまだに先生を頼りにしています。






角田先生の想い出
滝川 佐波子

 私は角田先生と入局が同期でした。旧姓が同じ漢字でしたので、「同じ名前の人がいるなんて驚いたなー」という、医局初日の先生の声がいまだに聞こえるようです。新人のころのつらい失敗談も、先生と語ると暗くならずに済みました。いつも太陽のように明るい先生でした。その後の私は家庭に入り、子育てに専念する毎日を送っていました。医局に、社会に貢献していないという負い目がありました。先生の事故を朝のニュースで聞いたとき、とても申しわけない気持ちになりました。葬儀の日のご家族の皆様の涙を忘れることはできません。今でも子育て中心に生きていますが、これからも勉強を怠らず、先生が働いた何十分の一かもしれませんが、社会に貢献できるよう毎日を過ごして参りたいと存じます。
 ご家族の皆様の未来に、幸多かれと心よりお祈り申し上げます。



角田先生との思い出
藤野 靖久

 角田先生は医局の4年先輩です。自分が新人の時、一緒に3ヶ月間出張に行ったことに始まり、まさしく公私ともにお世話になりました。内視鏡技術を含めた診療、学術活動はもちろん、酒の飲み方、他科の先生や看護婦さんとの付き合い方、車の運転の仕方?、アウトドアライフの極意等、多くのことを学びました。ここにそのいくつかを紹介させていただきます。
 消化管内視鏡は現在では電子スコープ化し、リアルタイムでの病変の診断が優先され、検査後に写真の読影をすることは少なくなりました。しかし当時は先端カメラの名残で読影による診断が重視されていました。診療終了後に内視鏡写真の読影を行い、角田先生にマンツーマンで厳しい指導を受けたことが、現在、自分の内視鏡技術の基礎になっています。また、出張先で経験したMirizzi症候群の症例を研究会で発表した際には、スライドの作り方まで細かく指導していただきました(当時は今のようにパソコンで簡単に作れる時代ではありませんでした)。
 厳しい指導の後には街へ繰り出すわけですが、時には看護婦さんと、またあるときは他科の先生と親睦を深めました(写真)。角田先生は親交が広く、多くの先生方と仲良くさせていただき、臨床の場でも助けていただきました。また、酒にも詳しく、特にカクテルに通じており、2次会の最初の酒はギムレットという教えは今も守っています。それから、飲んだ後には必ず死ぬほど食うことも…。
 初めての出張での忘れられない思い出に免停事件があります。自分はスピード違反で一発免停になり落ち込んでいました。そんなときほとんど時を同じくして角田先生も免停となり、かなり勇気づけていただきました。ちなみに同じころ交通違反で捕まった整形の先生は見逃してもらっており、某警察署のことは今でも恨んでいます。
 出張終了後も家族ぐるみの付き合いをしていただき、何度かキャンプにも出かけました。キャンプといえば炭をおこしてバーベキューですが、火の回りが悪いと、角田先生は「これを使えばすぐ火がつく」といって研究室から持ってきたアルコールのビンを取り出し直接炭火にかけました。当然、火は流れ出るアルコールを伝ってビンの中まで到達。同時に爆音とともに火のついたアルコールがあたりに飛び散り、あちこちの草むら、買ったばかりのテントから火の手が上がりました。幸い、火はすぐに消え、テントにいくつかの穴が開いただけで済みました。夜も更けてくると山の夜はかなり冷えます。角田先生は明かりと暖をかねてテントの中でガスランタンを点けました。寝るときは火を小さくするのですが、いつの間にか火は消え、テントの中にガスが充満。翌朝、それほど飲み過ぎたわけでもないのに、ひどい頭痛を訴えていました。
 そんな角田先生がいなくなったなんて今でも信じられません。ルパンで飲んでいると、「おめー、何してんだ」と大きな声を上げながら入って来そうな気がします。

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角田健先生の思い出
佐藤 元昭

 昭和61年の春、私は角田先生と一緒に第一内科に入局しました。私は昭和51年卒で法医学、麻酔科、臨床検査医学などを回り道してからの入局でしたので角田先生より10才ほど先輩となります。しかし、第一内科では同期入局ということで消化器内科の勉強は同時スタートでした。角田先生は昭和大学医学部出身でしたが、もともと岩手医大出身の人より溶け込んでいて、とても明るく、昭和61年入局組の人気者でした。一緒に勉強したり、遊んだりして楽しかったのを覚えています。
 ある時、医局忘年会でコントというか寸劇をすることになり、その仮装のため派手な女性用衣装と下着をなぜか私と角田先生が身につけることになったのです。服のほうはある飲み屋さんからなんとか調達できましたが、女性用下着はなかなか難しいわけです。困っていたところ、角田先生が新品の下着を買ってきたというのです。奥さんにでも買ってきてもらったのかと思ったら、なんと体形に合わせるため自分で某デパートに出向き、きちんと試着して買ってきたのです。「大変だったんですよ。ほんとに」と言って、その時の買い物の状況を真面目な顔で面白おかしく、身振り手振りを交え説明したので、皆で大笑いでした。
 さて、角田先生は持ち前の明るさとエネルギッシュさで院内はじめ、出張先の病院でも高く評価されていました。平成元年、私は県立往田病院の院長として赴任しました。住田病院時代も角田先生には当直応援をして頂き、本当に助かりました。その後、角田先生は県立宮古病院の内科長として活躍されました。その頃にも県立病院の仲間で、且つ、第一内科の同門というのでいろいろとお世話になりました。
 先生が事故で亡くなられた後、県立病院の院長会があった折、宮古病院長と飲みながら角田先生の話となりました。その時、宮古の院長が私に「元昭さん、あのね、角田君のこと、俺、本当に残念なのさ。彼が来てから宮古病院の医局のまとまりが良くなったのよ。いろいろ気配りして、世話してくれるのよ、彼が。惜しいね。」と言うのです。続けて「声がでかくて豪快だけど、患者さんにはやさしいし。」と言うのでした。私は黙ってうなずくのみでした。




角田先生の思い出        
中野 修

 私は今、鹿角組合総合病院に勤務していますが、当院の他科の先生方との雑談に今でも角田先生の逸話ばなしが出てくることがあります。ほとんどが酒に関連した話で、やはり角田先生といえば「酒」なのだとつくづく思います。一緒に酒を飲むと特にわかることなのですが、豊富な雑談内容がとてもゆかいで、さらにのってくるとその濃い語りについつい引き込まれてしまいこちらが完全に聞き役になってしまうのです。
 私は約10年間三研で一緒でしたが、飲み会ではほとんどが聞き役なので酒が進みすぎていつも翌日まで残る状態でした。始まりは私がまだ6年生の時のポリクリ実習でした。そのときの指導医はこの追悼集の発起人で編集者である藤巻先生で大変お世話になったわけですが、実習の打ち上げの飲み会になんと角田先生がいっしょに来てくれました。オブザーバー的な参加だったんでしょうが、完璧に主役でした。二次会は一人・・・千円ぽっきりというような店に連れて行っていただき、だからというわけではありませんが迷いなく一内に入局してしまったというわけです。後日藤巻先生に伺ったところメンバーがおとなしかったのでうるさい人間を連れて行って盛り上げようと思ったとのことでした。この戦略にはまったのが同期の中塚先生と私でした。三研に入ってからはいっしょに飲みに出かける頻度は加速します。普段飲みに行く理由は少し不純で、当時の三研は折居先生の他に藤巻先生、斉藤裕先生がいらっしゃったわけですが、夜8時9時は当たり前で先生方が帰らなければ我々下っ端も帰れないわけで、そこで角田先生以下我々は藤巻先生に恐る恐る(?)声をかけてみるのですが、藤巻先生も角田先生の誘いには断れない様子でみんなで三研脱出に成功するということを繰り返していたのです。学会ではアルコール量は倍増します。総会に出席した際の夜はもちろんですが、仙台の地方会に日帰りで出席したときも大変でした。夕方帰りの新幹線に乗ったのですが、角田先生も私も演者だったので発表が終わった開放感からビールが飲みたくなり車内販売が回ってくるのが待てずビュッフェに直行し、その場でビールとつまみをたのみ1杯が2杯3杯となり二人だけのスタンドバー状態になってしまいました。結局盛岡に到着した時にもビュッフェで飲んでいて、ホームに下りたときには二人ともいい感じになっていて我が家へ帰宅とはならずタクシーは当然のように大通り方面に向かいました。新幹線での立ちっぱなしは混雑で座れない時を除いて後にも先にもこの時だけです。
 最後に写真を一枚紹介します。オートキャンプにも何度もいっしょに行きましたが、これは住田町種山高原でのスターウォッチングというイベントに参加したときに撮ったものです。キャンプでの話は藤野先生が詳しく書いてくれると思うので触れませんが、久しぶりに写真を見て思うのは、生きていたらもっともっとすごい話を沢山聞かせてくれるんだろうなあと、ため息がでてきて、そのあと胸がつまる思いになってしまいます。5年前までの楽しい時間はこれからも忘れることはないでしょう。

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耳学問ノススメ(角田先生を追悼して)
山敷 宏正

 角田先生にかわいがられたというか、はらはらと心配させたのは私ではないかと思っています。もう十五年も前、私はとても力の入った新人だった。と書くとかっこいいのですが、ようするに生意気盛りの腕白坊主といったわけで、一生懸命本を読んで早く役に立つようになろうなどと思っていたりして、そのときの指導医は大変ご苦労されたと後で聞きました。(あえて名は載せませんがその先生はその後も私に苦しめられたそうな。)
 さて、出張するようになり県立釜石病院に勤務となったとき、私とともに出張されたのが、その指導医の先生の子分肌(?)であった角田先生でした。その当時の、胃カメラもできない、胃透視と注腸検査が何とかできる程度の私に、胃カメラなどの挿入・観察法、時には間違って覚えていた用語の訂正などを、時には病院で、大部分は時間外の街の居酒屋で(おいおい)教えてくださったのですが、それまで誰が言っても本に頼りがちになる私に、角田先生が言った一言がそれからの私の研修にとって大事な転機となりました。それは病院の門前にある居酒屋さんで、いつものように夜遅くの夕食をとりながら、たわいもない話をしているときでした。角田先生が「おい、山敷。おまえはいろいろ本読んでいるけれど、おれたちの仕事ではわかんないときに悠長に調べていられない時もある。あと本になんか書いてない大事なこともたくさんある。耳学問というとおまえは馬鹿にしがちだが、耳から教えてもらうためには教える人にかわいがってもらわなきゃならないだろ。これが大切なんだ。それに聞いた方が楽だしよ、効率いいじゃん。がっはっはっはっはっは・・・・・・・(酔っているので記憶上ここまで)。」このとき、わたしは目からうろこが落ちた思いにかられたのです(天国より、角田先生見てますか?)。それは角田先生が持っていて自分自身にはないもの、コミュニケーションの能力がない上にどちらかというと欲していなかった自分が、このときから誤解を受けることは多くなるけれども、何とか人とつながれるようになれればという考えと、本にはない大事な知恵への気付きでした。それから自分が見違えるように変わった・・・わけではありませんが、少し変化したと思っている次第で、先生と自分の、人生も含めたきわめて重要な出会いであったと思っています。これからも私の心の中で、あの笑い声とともに最初の先生の教えを忘れる事はないでしょう。
 最後に角田先生、先生にとっては愛する御家族をおいての旅立ちでしたので、心残りがあると思っています。将来不安な後輩もいたので心配していると思っています。とりあえず不肖の後輩の一人は、他にもいろいろやらかしましたが、何とかやっていますのでちょっとだけでもご安心ください。




角田 健先生を偲んで
秋浜 玄

 昭和61年春に、同期として岩手医大第一内科に入局、角田先生と出会ってから、今年で18年となります。しかし、先生は平成11年、急ぐように逝去された為、正確には14年間、特に親しく付き合いをさせてもらいました。医師として初めて仕事をした日から、いつも先生には叱咤され、激励され過ごしました。良くも悪しくもその性格ゆえ、先輩、同期、そして後輩諸氏と衝突することも多かったと思いますが・・・。
 角田先生は、声が大きく、どこに居てもすぐわかる人でした。第一診察室で話している彼の声に第二診察室の患者さんが返事をすることもあるくらいでした。そんな彼なので批判や中傷の的になることも多かったと思います。しかし、いついかなることにも、正面からぶつかり、医者よりも、まず人として立ち向って行く彼の姿に、同期ながらいつも畏敬をもってみておりました。
 思えば、医師としての生活が始まった時から、いつも節目には、私のそばに先生が居ました。私が一人では頼りなかったので、居てくれたのかもしれません。初めて内視鏡を握った日、初めて病棟の主治医となった日、初めて死亡診断書を書いた時、いつもそばに居てくれたような気がします。そして先生が第一内科の医局を辞し、県立宮古病院に科長として出向する日、すぐに帰ってくるよと話した後に、「俺は、将来は居酒屋のオヤジになりたいな」と冗談ともつかない顔で話したときのことを想いだします。先生の飾らない人柄を、今、なつかしく思います。そして、その言葉の意味を今少しだけわかるような気がします。
 県立病院での仕事も勢力的にこなされていました。たまに、私にも声をかけてくれ、何度か宮古病院で手伝いをさせてもらいましたが、先生との最後の別れとなった場所も宮古病院でした。いつもは、「ジャア、マタ」といって分かれるのですが、その日はなぜか玄関の前まで見送りに出てくれました。「タマタマダ」とおそらく先生は話すと思いますが、「気を付けて帰れよ」言ってくれたのを覚えています。
 幼い頃からの生活も決して平穏ではなかったと聞きました。最後まで波乱万丈ともいえる人生であったとも思いますが、そうした先生の周りに集まる人たちを、先生はとても大切にされていました。中でも先生が熱心に教えた後輩たちが、現在要職に付き活躍していることを、空の上の彼にぜひ知ってほしいと思います。また、ご家族のことはいつも自慢され、また、心配されておりました。そして、普段は勝気の先生が、ご家族を心配のあまりに一度だけ、涙を見せたことがありました。・・・ご家族を想う気持ちも人一倍でありました。
 「先生が今も生きていたら・・・」と思います。角田健ならどう考えるか、どうするかと、この年齢になってよく思うことがあります。「心配するな、大丈夫だ」あるいは「ちゃんとしろ」との声を、あの頃と同じように、聴きたくなることがあります。もしかしたら、大きな声で声を掛けてくれているのかもしれませんが、その声を聴くことが出来ないのが寂しい。あれほど大きな声であったのになぜ聴こえないのかと、自分を情けなく思います。
 先生が逝ってはや5年、その太く短い人生において示してくれた事をかみしめながら、今、平成16年の冬を過ごしています。もうすぐ先生と別れた二月が来ます。いつかどこかでまた先生に出会える、そのとき迄、もう少し頑張ろうかと思っております。


秋浜氏の結婚披露宴でのスピーチ



岩手医大同期入局の医師・看護師の懇親会